『ルジャンドルとの対話』

ピエール・ルジャンドルルジャンドルとの対話』(聞き手フィリップ・プティ森元庸介訳、みすず書房、2010)を読んだ。

ルジャンドルは「ドグマ」と言う「呪われた語彙、理解されなくなった語彙」を蘇生させた。その由来であるギリシャ語の「ドクサ」は見えるもの、現れているもの、それらしく思われてるもの、夢の光景、装飾といった意味がある。ドグマにまつわる「権威的な思考」「自由な思考への憎悪」といった意味を帯びるようになったのは最近のことだという。

社会の根底にはドグマがある。典型として、「書くこと、綴り方を学ぶこと」がある。「現今の社会にあって第一の儀礼」である文字の綴り(文字の順番)がそうであるのは、そう決まっているから、としか答えられない。文字を書く練習を通して「自己を自己から切り離し、人格を形成する」(41頁)。西洋においては、法が担った「禁止」の機能も、典型的なドグマである。

ルジャンドルによれば、社会を〈テクスト〉として、つまりドグマとその解釈による制度のモンタージュとして考えた。訳者である森元の注が簡潔にまとまっているので引用する。

ルジャンドルは八〇年代以降、社会に変わる概念としての〈テクスト〉を、いわば思考実験的に打ち出している。基礎となるモデルは「書かれてある」ことを規範成立の根拠に据える西洋の法律主義であり、その具体的発現として、注釈の連鎖としての法文書、行政機構における書類生産といった現象が挙げられる。また、このテクスト性を構造のレヴェルへ繰り込むことで、「無文字的」とされるそれを含めた社会一般を、広義の言語作用のモンタージュとして考察する視点が導出された。」(31頁)

ルジャンドルはこの発想をラカン鏡像段階論から得ている。

「わたしが鏡を見る。その場面には三つの項があります。まずは、見つめる主体、つまりそこにあって己を映し出している身体です。ついで、鏡のうちの像がある。それは入り込むのことのできないもののメタファーです。そして三番目として、踏み越えがたい場所、絶対権力のメタファー、つまり鏡があります。」

「権力の人類学は三項的な構造を通過する。つまり組み立てる権力のことです。何を組み立てるのか。人間の元手となる破片や欠片です。このことを考えるには、人間が分割されているということを考えなければなりません。鏡のメタファーの眼目はそこにあります。」(134頁)。

ルジャンドルはここで、ボルヘス「鏡と仮面」(『砂の本』)を参照していてとても読みたとなるのだが、ともかくラカンは「精神分析経験の中で明らかにされる〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」(1949)で生後6ヵ月から18ヵ月の時期を「鏡像段階」と名付け、自分の身体の統一された像を持たない幼児が、鏡に映る自分の姿を見て、他者(親)の承認のもとに疎外として引き受けることを論じた。

鏡を見る幼児(「見つめる主体」)は、鏡に映った自分のイメージ(「鏡のうちの像」)という自分自身ではないイメージを自分であると他者(親)の承認を通して認識し歓喜する。50年代のラカンは、想像界における「誤認」が象徴界の「承認」によって調停される(『オイディプス王』)ことを追求した。ルジャンドルは「鏡像段階論」における他者と鏡というモンタージュを「踏み越えがたい場所、絶対権力のメタファー、つまり鏡」を第三項(象徴界)として措定する。疎外とは「人間が分割されている」という証である。

ルジャンドルは歴史とは線ではなく(発展史観の否定)、層をなしていると考え(「私たちを支えている地層」)、西洋における第三項である制度や儀礼の歴史(ユダヤ教の固有の規範性を切り捨てたキリスト教が支えにしたローマ法が中心にある)を探求してきたという。

「わたしが導入した〈テクスト〉という概念を介すると、西洋というものがいかにして意味を、そして(略)解釈学を構築しているのかということが見えてきます。西洋に固有の人間と世界の解釈のシステムが見えるわけです。(略)誰も他人の代わりに夢を見ることはできない。それと同じように、文化というのは孤独の産物、つまりアイデンティティの構成の産物なのです。〈テクスト〉のレヴェル、つまり文化のレヴェルにおけるアイデンティティの構築を扱う学はいまだ存在しません。それがわたしの仕事の対象領域なのです。」(76頁)

ルジャンドルは『他者たらんとする情熱』という魅力的な書名を持つダンス論を78年に刊行しているが、ドグマの「見えるもの」としての特性において「劇場」やそれを成り立たせる「儀礼」は重要な問題だと論じている。

「劇場化、それは世界の核心にあるものです」(48頁)。ルジャンドルノルマンディー地方での幼少期において、カトリック的な儀礼に包まれて暮らしていた。「どんな意味があるかなど知る由もありません。それでいながら、実に詩的な讃美歌をラテン語で歌っていた。ラテン語は秘密の言葉と同じだったのです」。謎めいた儀礼は謎として生を支える。

ルジャンドルは幼少期と同じことをアフリカ(主にマリらしい)で再発見する。

「わたしの子供のひとりがこのこと、つまり他なるもの、根本的に他なるものとの接触について、とてもよい証言をもたらしてくれたことがある。私たちはハンパテ・バーと食卓を共にしていた。子供は、当時、四、五歳だったと思いますが、こんなふうに訊ねたのです。「ねえ、どうして黒いの?」と。バーは答えました。「それはね、あまりに長いことオーブンのなかにいたからだよ」と。子供向けの答え、そして完璧な答えです。これこそ他性の謎です。」(49頁)

この本で一番美しい場面だろう。ルジャンドルによれば、この返事こそが他者の他者性を尊重した「他者の実存に対する敬意」に満ちた答えだという。子どもの「赤ちゃんはどこから来たの?」という質問に対する「コウノトリ」という(答えになっていない)答えも、謎として機能していると言えるかもしれない。

ルジャンドルラカンの「鏡像段階論」を歴史的に敷衍し、加えて、儀礼や制度、ダンスといった「見えるもの」のレヴェルにおいて、主体のあり方を考えた思想家であると要約できるだろう。たとえばこの観点から宗教をも単なる「信条の自由」に関する理解ではなく、「制度」と絡めて理解することができるなど応用可能性は大きい。

しかし、問題はここからである。ルジャンドルは、現在は「ポスト・ヒトラー時代の社会で生じた脱制度化」の帰結として「逆さまの世界」が実現していると非難する。保守主義者としての顔を顕にする。

「謎の次元、理解できないものの、次元を取り除くと、生はありえなくなってしまうということです。あるいは、生はなまくらになって、ただ、あれやこれやを食い潰すだけのものになってします。わたしたちのいまの生き方は、社会化されたダーウィン主義です。そう呼ばれることは決してなく、民主主義なるものを装っているわけですが。」(48頁)

加えて、トランスジェンダーセクシュアリティについての極めて保守的、ウィルやハナダ並といっていいくらいの愚劣な見解の数々が紹介されている(引用はしない)。ルジャンドルは人間という「アクシデントに遭った種」(26頁)にとって言葉の世界との関係こそが本質的なものであると考えたにもかかわらず(「ジェンダートラブル」!)。

これは何に由来するのだろうか。ラカン精神分析理論を超歴史的に応用していることから来るのか。キリスト教の歴史に由来するのか。それとも性差という人間にとっての根本的なドグマの「堅固さ」(ウィトルウィウス)を物語るものなのか。そして何より、性差別なきドグマ、「他性の謎」はいかに構想できるのだろうか。

 

木庭顕『ローマ法案内』

2010年の羽鳥書店版。「君がいきなり街中で或る男から「お前は私の奴隷ではないか」」と言われ捕らえられるという想定から始まるのが、可笑しい。

「自由に関する限り、十二表法に少なくとも根を持つもつ一つの大きな制度が存在する。君がいきなり街中で或る男から「お前は私の奴隷ではないか」「昔の私の女奴隷が生んだ後盗まれたあの子ではないか」と言われ捕らえられたとしよう。君の父親がそこにいて「いやこれは私の息子だ」と言って応戦してくれれば、とにかく君の側は被告の立場に立ちうる。相手はいちいち事実を証明しなければならない。DNA鑑定の精度がどんなに上がったとしてもオーテトマティックな判断は問題である。しかし生憎父親は不在で、一旦その男が君を確保し時間が経ったとしよう。父親は原告として取り戻されなければならない。これは大変である。DNA鑑定も信じて貰えるかどうか。こうして、父親であると主張する者はアプリオリに被告の立場に立つ、という推定原理が出来上がる。不在にした父親にこの抗弁が認められる。しかし、もし父親がそもそも居なかったならばどうなるか。君は天涯孤独である。このとき誰も応戦しないから、占有はもとより、後段に立ち至って自由を証明するチャンスさえ失われる。これは余りにもひどい。そこで、自由であると主張する側には誰でも立ち、かつそれが正しいと推定される、という準則が付加される。これが占有原理のコロラリーであることは自明である。そして取得時効と同じ精神に基づくことも自明である。このジャンルの訴訟を自由身分訴訟causa liberalis と呼ぶ。やがてこの「誰でも」君は一層攻撃的になる。いきなり誰か奴隷を捕まえて「この男は自由だ」と叫ぶ。するとたちまちそれが正しいということが推定され、相手は必死に「実は奴隷である」ことを証明しなければならない。奴隷として買ったという売買の契約書を持って来ても虚しい。そもそもその前に浚われたのであるかもしれない。どこまで言っても浚われていない、ずっと奴隷であるなど、どうやって証明するのか。これが「自由のための取り戻し人」vindex libertatisであり、ローマでは好まれた姿である。そして、人身保護の観念こそは自由ないし人権の歴史的コアであった」74頁

エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』その2

フェミニズムにとって精神分析の理論的に重要な核心部分とは、いまではほとんど決まり文句になってしまっているが、性的差異が文化的なものに還元できないのと同様に、性的アイデンティティ生殖器だけで決定されるわけではないという主張である」(エリザベス・ライト) 

この「決まり文句」はいまだに繰り返される必要があり、竹村和子も性的差異をどう考えたかは重要な問題ではあるが、竹村についてはひとまず置いておいて、精神分析と表象分析について、エリザベス・ライトが興味深い指摘をしていたので取り上げたい。


サルトル的な視線とラカン的なまなざしの混同

フェミニズムの映画理論家たちは、1970年代、クリスチャン・メッツは映画が無意識のレベルでどう作用するか理解するために精神分析によって理論化した。映画の「見たいという情動」と覗き趣味やフェティシズムとの関連を論じ、フェミニズムはじめ表象分析におおきな影響を与えた。

とくに影響力があったのが、「まなざし」という概念である。ラカンによれば、鏡像段階において、幼児は鏡を見ながら、母親(他者)のまなざしや声に反応することでそれらを取り入れる。その結果、主体(幼児)は他者の領域、社会的なもののなかに位置付けられる。まなざしという視覚的幻想によって主体は自己を構築する。

まなざしの概念を積極的に利用したのが、フェミニズムの映画理論である。しかし、ライトによれば、多くの人々は「まなざし」の概念と「視線」の概念を混同していると批判する。

フランス語の le regardは視線とまなざしの両方を意味するが、ラカンの翻訳者は「まなざし」(gaze)を、サルトルの翻訳者は「視線」(look)という単語を使っている。サルトルの思想においては、視線は主体の側にあるが、ラカンにおいては視線は他者(母親)の側にある。

映画の視覚的な支配体制が論じられる場合、視線とカメラが同一視され、カメラが主体の側にあるということになる。

「古典的なハリウッド映画では、カメラは普通、男性監督に管理されており、そこための観客の知覚は、男性の視線を組み込むように導かれ、フェミニズムの介入を呼び込むことになる。」

ローラ・マルヴィが代表的な論者である。マルヴィは映画における男性的視線という視覚的支配体制を告発した。「観客に、抑圧的な性のシステムと結託しているという焼き印を押したのである。」

80〜90年代になると後期ラカンの思想が紹介され、メッツやマルヴィのラカンのまなざし概念の誤用が指摘されるようになったという。かれらの映画理論では「主体がスクリーンのイメージによってあまりに強く決定されるものとして提示されている」。ここではスクリーンは鏡像段階的な鏡と同一視されているため、想像的なナルシシズムの閉域に閉じ込められていることになるのだ。

しかし、当然のことながら映画(体験)とナルシシズムは同一のものではない。ライトによればポストフェミニズムの映画理論は、ラカンの「目」と「まなざし」の弁証法を理論化する方向へと移行した。象徴界の秩序に拘束された目と、ナルシスティックな幻想を追い求めるまなざし。主体は、想像的な幻想と象徴界の要求、すなわち他者の欲望との間の葛藤に巻き込まれている。繰り返せば、まなざしとはあくまで、他者のまなざしを指す。主体の視線ではない。視覚は鏡ではなく、スクリーンとして考えることができる。映画体験には他者性の介入が不可欠である。

「スクリーンの主体はナルシシズムを映す単なる鏡ではなく、スクリーンにーー主体のまなざしに触れ、それに挑む、異質で不透明な要素にーーなるのである」(※この引用で、主体「の」まなざし、となっているのは、主体「が」まなざしに触れ、の間違いではないだろうか)

この移行により、90年代のフェミニズム映画批評では、フェティシズムと覗き見趣味のメカニズムの分析から、幻想の構築、主体と他者の弁証法を視野に入れた分析へと変貌した。

ライトが取り上げるのが、フィルム・ノワールへの注目である。具体的な作品があげられていないのは残念だが、「宿命の女」が登場するいかにも男性的ジャンルにたいして、この新たなフェミニズム映画批評は、むしろ女性の能動性を見出す。

フィルム・ノワールは、幻想の客体としての女性が、自分のファルス的属性を使って自分自身を魅力的に仕立て上げようとしているという意味では、(※リヴィエールのいう)仮装の問題を縮図的に示している。しかし、そうはいってもやはり、こういした同一化は、フィルム・ノワール脱構築的に楽しめる女性の観客に提供された能動的な場になりうるのである。」

ラカン的まなざしの走り書き的解説

近年のSNSーーいや社会でと言ったほうがいいーー「まなざし」の問題はしばしば批判されている。ある新聞の広告は男性的なまなざしの産物であるといった批判である。おおむね視線の意味として理解できる。

むしろ、ラカン的なまなざしが特異なあり方としてある。それは他者という語が単なる他人や「別の人や集団」という通常の意味とは違うことに起因していると思われる。

精神分析においては、他者は個人とは関係なく、自律性をもったひとりひとりの自己が幻想として扱われる象徴体系として論じられている。他者とは、現実を決定したり、私たちの選択を指図したりするようなものではなく、実現することのない約束を介して構成的な欠如を乗り越える構造である。」

どういうことだろうか。基本的な文献である『精神分析の四基本概念』を参照しよう。

「ここで(※サルトルのテクストで)言われている眼差しは、まさに他の人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我々が把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を眼差している他の人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのが、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか」(「Ⅶ アナモルフォーズ」)

ラカンの理路を暴力的に要約すると次のようになる。主体は言語の世界=他者の領域=象徴体系に参入するなかで、存在欠如を被る。この失われた存在を代理するのが対象aである。ラカンによれば、まなざしとは見る主体に先行するもので、その成立において必然的に失われる対象aとして存在する(鰯缶のまなざしのエピソード)。対象aとは意識的経験の中では十全な姿を見せない(ホルバイン『大使たち』の歪んだ髑髏)。無化する主体、つまり去勢された主体の存在欠如の徴としてのみ存在する。

他者の眼差しとは他者の欲望である。去勢とは他者の欲望からの分離を意味する。「欲望の機能の中に根をはっている主体」とは、欲望を埋め込まれた主体を指す。

つまり、ラカン的まなざしとは他者の欲望の現れであり、主体はその謎めいた他者との対峙の中で欲望の主体として構成される。

 

ラカン的まなざしを把握した上で、マルヴィに戻りたい。

マルヴィによれば、すべての映画やイメージは家父長制の痕跡があり、その視覚的快楽は破壊される。この種の批評は解釈としての鋭さがあるものの、その結論は単調である。むろん、社会が家父長的なのは事実であるので、その批判が無意味なものとは言えない。

マルヴィの映画批評は今日的な表象分析の範例としてある。それはある種の検閲の比喩で語られてもいる。視覚快楽の破壊を意図しているのでそのような反応が出るのは当然だろう。

しかし、それだけに留まるものなのだろうか。

出発点にもどれば、マルヴィが問題としたのは女性の無意識である。ラカンの性別化の式はあくまで去勢やファルス機能から演繹されたものであり、そうではない性のあり方とはどのようなものなのだろう。

疎外(と分離)のあり方はさまざまなバリエーションがあるはずだ。

余談だが、拒食症は女性が圧倒的に多いことがしられている。これについてのラカン派の分析があり、疎外と分離(の不全)にかかわるという。

そもそもセクシュアリティの謎は他者という謎に由来する。この謎への対処には去勢やオイディプス・コンプレックスだけが正解とは限らない。はたしてどのようなものなのか。

ローラ・マルヴィのテクストに戻って考えてみたい。

エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』

エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』を読んだ。

竹村和子の解説を先に読み、問題提起的であるものの、そのラカン解釈に違和感があった。ライトによる本文を読んだが、竹村とライトの間でも解釈の違いがあるように思った。

 

解説で注目すべきはフロイトラカンの理論は「バックラッシュ」であるという指摘だ。フロイトの存命期間は、欧米やオセアニアで女性運動が組織化された時期だった。1893年ニュージーランドで女性参政権が初めて施行され、オーストリアでは1919年、ドイツでは1918年に認められた。
「資本制が産業資本主義から消費資本主義へと移行するなかで、エディプス的ドメスティシティは確実に空洞化するはずだった。まさにその時代に、一種のアナクロニズムとも言える過去追認的な姿勢で、フロイトは性的差異に固執したのである」
女性運動の拡大を前にした怯えが、フロイトの理論を波及させた一因ではないかという問題提起だ。竹村は触れていないがD=Gの『アンチ・オイディプス』に共通する観点だろう。
ラカンについてはより巧妙な「バックラッシュ理論」だとされる。
問題となるのがラカンの「性別化の式」。ファルス機能(去勢)に対する関わり方の差異によって論理的な位置付けがなされる。竹村はライトの本書をフェミニズムの見地から「性別化の式」わかりやすく解説していると評価している。
「本質的属性や身体的特性によって各容態が自足的に方向づけられているのではなく、関係性によって規定しあっている。さらに両者には「性関係はない」(『アンコール』)と断言されているので、欲望の諸関係は、身体的部位に牽引される異性愛主義からは、原理的に解き放たれている。」
竹村はまさに「フェミニズムが待望していた公式と言えるだろう」とまで評価する。

だが、竹村は次のように続ける。
「しかし問題は、そうであってもなおこれが「性別化の公式」と名づけられたことである。また二つの位置を分かつ象徴として選ばれたのが「ファルス」であること、そして十全たる快楽からの疎外が「去勢」の比喩で語られていることである。」
ラカンは「ファルスは現実の器官ではない」というが、「そうではない」と言いつつ「そうである」と思い込ませる修辞的な力があると批判するのだ。

しかし、本文ではライトは次のように書いている。

フェミニストは「ファルス」が単純にペニスとはイコールで結べないということを十分にわきまえてはいても、やはり男性の肉体の一部分に由来する象徴を使うことには反感を覚える。」

フェミニズムのファルス批判は、性別化過程の意味についての誤解にもとづいたものである。」

ファルスはあくまで機能であって実体ではない。西欧の文化的幻想の歴史のなかでファルスがペニスの役割を果たしてきたが、ラカンの性別化の説明は特定の文化に限られたものではない。これはラカン派的な護教的レトリックに見えるかもしれないが、ライトは次のようにも認識している。

「これらの公式は、特定の主体がどの客体を選択するかという生物学を横断する問題とはまったく関係がない。だが、客体の選択がいかに多様であっても、ずっと遠い将来に人間の生態がいかなるものになろうとも、社会というものはなおも、なんらかの二分法を求めてくる。「去勢」に相当するものは、やはり存在しなければならないだろうし、それがなければ、言語に入ることができなくなってしまうだろう。」

竹村は「ファルス」や「去勢」という男性的な修辞に反発を覚える。一方ライトは必ずしも「去勢」と呼ばなくてもいいが、それに相当するものは、人間が言語的存在であるかぎり、存在し続けると言う。この差異はわずかなようだが、大きい。

竹村はフェミニズムフロイトの性差別的言辞を批判するだけでなく、性別化の前提をくつがえす新しい心理理論を打ち出す必要があると書いている(「そうでなければフェミニズムの議論は、無政府主義的な抵抗にはなりえても、生を希求する主張にはなりえない」)。しかし、ライトに対して、「身体」という概念と「ファルス」あるいは「去勢」の概念との関連が曖昧であると書き記す程度で(その理路も不鮮明)、その理論的全貌は不明である。

竹村の解説では最後、唐突にローマ法王ヨハネス・パウロ二世の保守的な性別発言と2004年のブッシュ再選が批判され、宗教的熱狂のなかで、「性的差異が不可侵の身体として称揚」されると指摘される。

「「女は存在しない」とラカンは言った。しかしラカンラカン派が性的差異を「形式」として捉えれば捉えるほど(彼らの議論はあまりにも難解で人口に膾炙してはいないが)、グローバル化する世界情勢のそここで発生している暴力布置への理論的介入を阻み、その結果、現存の体制を思想的に補強していく。」

これはあまりに牽強付会だろう。ラカンとブッシュの再選には何の関係もない。ラカンカトリック的な背景をもっていたとしても、ヨハネス・パウロのコンドーム禁止令とは何の関係もない。難癖にすぎないことは「彼らの議論はあまりにも難解で〜」と書かれていることから、竹村自身にも自覚されている。

この錯誤は、竹村が「性的差異」を把握し損ねていることから来るのか、それとも把握したうえで「別の理論」を希求していることから来るのか、どちらだろうか。(続く、かもしれない)

 

 

 

カデール・アティア 《記憶を映して》(2016)

 国際芸術祭「あいち2022」に行ってきた。と言っても、時間的都合から愛知芸術文化センター一宮市会場の一部しか見られなかった。

 

 わたしが見た中で最も印象的な作品だったのが、カデール・アティア Kader Attiaの《記憶を映して reflecting memory》(2016)だった。

Reflecting Memory, 2016  

 

 本作は「幻肢痛」をテーマとした40分程度の映像作品だ。事故や病気のために手足を切断した後、既にないはずの手足の痛みを感じるという症状。日本でベストセラーとなった『脳の中の幽霊』でも取り上げられていた。

 

 本作では外科医や作家、義肢装具士、精神病理の学者たちといった専門家からミュージシャン、ダンサーなど様々な人々のインタビューから構成されている。

 

 専門家のインタビューとミュージシャン、ダンサーのインタビュー、そして時々インタビューされているわけではない人々が挿入される。最後のカテゴリーの人々は教会で祈ったり、事務室で座っていたり、森や公園の中で仁王立ちしたりしているのだが、ある方法で映像の終盤に元患者であることが明示される。

 

 本作が面白いのは、幻肢痛の話が歴史的なトラウマや人種主義やホロコーストに接続されることと、元患者よりも専門家たちがペラペラ喋っているところだ。

 

先に後者について書くと、普通、幻肢痛についてのドキュメンタリーを撮ろうとした場合、「当事者」の話をメインにして、補助的に専門家のインタビューを挿入するという構成にする。だが、本作ではもちろん元患者であるダンサーやDJもインタビューを受けているのだが、座ったままの男性や女性、仁王立ちしているだけの男性などは一言も喋らないのだ。これは幻肢痛を単なる「特殊な症状」として扱わず、「幻」という存在、歴史的なトラウマの話に展開するための選択と言えるのかもしれない。

 

 不在の身体が痛むように、そこにないはずの過去の辛い記憶が回帰して苦しみをうむのがトラウマだ。家族の死、戦争や民族紛争の記憶、ホロコーストの経験は何十年経っても、生存者を苦しめる。

 

 驚いたのは、精神分析の専門家としてフェティ・ベンスラマが登場したことだ。ラシュディ事件を論じた『物騒なフィクション』で知られている。丸々としたお爺さんという体で、おそらく二回以上インタビューを受けていた。感想を検索してもベンスラマに言及している人はいなくて、日本での知名度の低さにがっかりした。

 

 ベンスラマの方法は社会の存立の前提に精神分析的な問題を求めるというアプローチとでも説明すればいいのだろうか。本作では、共同体にとっての死者や共同体が幽霊という存在を必要とすることについて、また政治体や教会について、雄弁に語っていた。印象に残っていたのは、「宗教が自ら変わることはなく、社会が変わることで宗教の側も変化を余儀なくされる」とう指摘。これはキリスト教も同じ過程を経ていて、イスラム教についても同様だろうという見立てだった。

 

 タイトルの「記憶を映して reflecting memory」とは、幻肢痛の鏡を使った療法から来ている。ダンサーが鏡を使わなければ、自分の身体がわからないと言っていた。これは療法のことを指しているのだろうし、手を失う前のダンサーとしての経験からも来ているのだろう。鏡というモチーフは視覚的にも活用されていて(そういえば精神分析では鏡像段階が理論的な基盤である)、元患者たちの目の前には衝立のように鏡が置かれていて、まるで手足があるかのように映像に映っている。本作でインタビューされない元患者たちの寡黙さが強く印象に残るのはreflect(熟考)している様が際立つからなのかもしれない。

 

 トラウマの克服には喪の作業が必要であるという。ただ黒人差別の専門家が、人種差別の現実は進行中の問題であり、喪というより鬱というべきであるという指摘をしていた。

 

 精神科医のインタビューで本作は締め括られる。15歳で窓から落ちるという事故で手術を受け、のちに自身も神経外科医になった人物とのエピソード。再会後の手紙には、同じ手術室に来られて嬉しい、ここから自分の人生は始まったんだ、という言葉が書かれていたという。本作はこの言葉で閉じられている。

 

 そのほか音楽のダブはレゲエから歌などを引いた幻のようなもので幻肢痛に似ているというミュージシャンの指摘も面白かった。幻というモチーフでさまざまなものが繋げられている。

 

 カデール・アティアはアルジェリア系の移民としてフランスに生まれ、フランスとアルジェリアで育ったという。「幻」の探究が社会や歴史の問題に接続されて作品を作られているのがよかった。

 

 雑然と書いてしまったが、「あいち2022」では他の作品も面白かった。奥村雄樹さんのルーシー・リパードの展示の再現、百瀬文さんの過去作《ヨカナーン》も見たことがあったのでちょっと覗くだけのつもりが引き込まれて最後まで見てしまった。唐突に股間を弄るジェスチャーがおかしい。

 

※※

 

ところで、「あいち2022」にとってトラウマとも言えるのは前回の「あいちトリエンナーレ2019」だが、わたしが見た限りではその点について明示的に言及した作品はなかった。日本の植民地主義を取り上げた作品も見つけられなかった(見落としているか、あるいは他の会場にあるのかもしれない)。

 

むかし柄谷行人が「遠い他者」と「近い他者」について書いていたことを思い出す。一般に考えられているのとは逆に、時間的にも空間的にも離れている「遠い他者」について考えるよりも「近い他者」について考えることの方が困難を抱える。トラウマは忘却したと思っても回帰する。新たなスタートとなるはずの「喪の作業」は次回のトリエンナーレに持ち越されたのだろうか。

 

 

ベンスラマはこんな顔https://en.wikipedia.org/wiki/Fethi_Benslama



 

 

 

 

 

PARAレクチャー・福尾匠「なぜ制作だけでなく作品があるのか」感想(というほどではないメモ)

 神保町で福尾匠さんのレクチャー「なぜ制作だけでなく作品があるのか」を聞いてきた。PARA「作品とは何か」レクチャーコースの第一回だという。90分とは思えないほど充実した内容だった。

 

 あいちトリエンナーレ2019をインスタレーションの問題として考えることから始まり、ハイデガーベンヤミン、ハーマン、クラウスをインスタレーション論、作品論として読み変えていき、大和田俊、佐々木健の展示を分析し、「表現とは何か」という問題まで踏み込んでいく、という大変スリリングなレクチャーだった。詳細についてまとめる自信はないので省くが、福尾さんは「作品」という存在を理論の問題として捉え、尚且つ個別の作品の存在を消去しない、という論理の筋道を探究しているように感じた。それはきっと「制作」の新たな側面に光を当てるものでもあるだろう。

 

 ところで、福尾さんはレクチャーのまくらとして「作品に対する疲れ」という現象が起きているのではないかという話をしていた。二時間の映画を見るより、数分の動画をたくさんなんとなく見る方が楽でほっとしてしまう。作品というきっちりとしたものよりも、動画の方が生活実感として心理的ハードルが低い。もちろんその感覚に対してもどかしさもある、と。

 

 たしかにわかる話だ。YouTubeなどの動画は「パフォーマンス」の記録としても考えられるが、作品というほどきっちりしていない、というか、ゆるい。生活の隙間に差し込むにはちょうど良いのかもしれない。環境音楽的とでも言うのか。一方で、作品という存在はどうしても鑑賞者に「分裂」をもたらすものだから、疲れるのも仕方ないとも思う。となると、どう(やって)作品に出会うか、が問題なのかもしれない。わたしたちがわざわざ作品を見に行くのはどうしてなのだろう。何を求めて疲労を超えて作品を見に行くのか。

 

追記(10/2)

福尾さんの日記でレクチャーの内容について触れられていました。

https://tfukuo.com/2022/10/02/%e6%97%a5%e8%a8%98%e3%81%ae%e7%b6%9a%e3%81%8d178/

 

「影をしたためる」

 9月11日。渋谷のbiscuit galleryにて「影をしたためる notes of shadows」(松江李穂キュレーション)を見てきた。美術作家の菊谷達史、前田春日美による二人展である。

 

※三人のインタビュー

https://bijutsutecho.com/magazine/interview/oil/26027#.YybTgVVFAlo.twitter

 

 一階には菊谷の作品、二階には前田の作品があり、三階には菊谷と前田の映像作品がメインだ。

 

 松江のテクスト「影をしたためる One note on the shadow」によれば、菊谷は「iPhone上に残された身近な記録写真や映像をもとに虚実を織り交ぜながら、ポップアートや近代絵画、イラストレーションを混合させた平面作品やアニメーションを制作してきた」。記録された写真や流通するイメージとは「現実世界の二次的な副産物」であり「影」であるという。ひと昔前であれば、シミュラークルと呼ばれたものだろう。

 

 インタビューによれば、「絵画の起源は去り行く恋人の影帽子を壁に残した」ところから始まったというプリニウス『博物誌』にある「絵画の起源」のエピソードが今回の企画の出発点にあったらしい。

 

 ストイキツァ『影の歴史』で読んだ記憶がある。恋人の影の絵。それはたんなるイメージではなくて、イメージ(影)のイメージ(絵)である(ことが論じられていた気がするが、記憶に自信がない)。影をしたためるとはこのことを指すのだろうか。

 

 菊谷の絵画は小さく(ゼロ号というやつだろうか)、スマートフォンを横にしたようにも見える。ある作品の額縁にサインペンで「草をかる様に、石を取る様に、写真を撮る。獲る」と殴り書きされていたが、わたしたちはプリニウスの恋人たちのように、iPhoneに恋人や家族の写真を収めている。それはまだイメージ(影)でしかないので、菊谷はまさに「イメージのイメージ」として絵画を描いている、のかもしれない。

 

 二階には前田の近作・新作が展示されている。《vis a vis》(2020)は、アコンチ的な映像作品。ただアコンチがカメラ=鑑賞者を直視して指を指すのとは違って、前田はカメラの前に片方の手のひらを広げ顔を隠す。カメラもそれに向かい合う前田も動いているため、画面がゆらゆらと揺れている。前田の作品にはいわばルッキズム批判のようなモチーフを読み込むこともできるだろう(そういえば、アコンチの作品はある種のマッチョさと言うべきものがある)。それとアンチクライマックス性も特徴かもしれない。映像作家ならなにかしらのサスペンス性の演出やオチをつけたいと思うのだろうが、この作品は坦々としている。

 

《The way to move a hill》(2022)は、難解な作品だった。松江によると「前田の身体のサイズに合わせて作られたアームレストのような鉄製のツールとモニター、そして映像内で前田が行なっている動きの機序を記した指示板で構成されたインスタレーション作品である。映像には前田がツールを用いて行ったパフォーマンスが記録されている」。これを読んでもイメージがわかないかもしれないが、しかし、まさにこの通りの作品なのである。画面に写っているのは、接写されたツールのクッション面とそれに接触する身体。身体がバラバラになった感覚、というか、身体がそこにないこと自体が作品になっている、という印象を持った。身体の「影」を再構成した作品と言えばいいのか。この作品の正確なディスクリプションはわたしの能力ではできないので諦める。

 

 この展示でわたしが一番心を動かされたのが、3階にある前田の《遠い体》(2019)という9分程度の映像作品だった。

 

 白いスクリーン。左側に粘土が積まれている。そこにプロジェクターで作家自身の身体の映像が投影される。ハサミが入れられた隙間から両手両足のみ突き出される。視覚のない状態で、足の輪郭を粘土で埋めていく。身体は切断され、同時に出現する。投影される映像の身体自体も二重化されていて、複数の手とともに彫刻が作られていく。最後、映像は立ち去り、足の彫刻だけが取り残される。

 

 投影された身体の映像にハサミが入れらる瞬間は痛ましくも切実さがあり、鑑賞者の「わたしの身体」のあり方が揺さぶられるようだった。

 

「身体はそこに〈ある〉ものとは常に別のものである」とメルロ=ポンティは言ったが、身体はつねに「わたし」にとって違和を孕んでいる。純粋に見るわたしは存在しない。見るわたしと見られるわたしのあいだでつねに齟齬は生まれ、消えることはない。そのことは普段忘れられているが、本作はその事実を突きつける。

 

 立ち去った身体は一体どこに行ったのだろうか。あれが「わたし」の身体なのだろうか。それとも、残った不自由な硬い足こそが「わたし」の身体なのだろうか。いずれも「遠い体」であることは変わらない。

 

 この作品を見た後に2階に戻ると、二つの作品への展開がよく理解できるような気がした。どちらも身体の新たな活用法、潜在性を探求していると言えるのではないだろうか。体が「遠い」のであれば、それを使って分解して組み替えることができるはずだ。手を使えば顔のない身体をつくることができるし、ツールとカメラを使えば肌だけの、表層だけの身体をつくることもできる。

 

 前田の作品ではつねに身体がなんらかの「欠如」や「不自由さ」を抱えているように見える(なにかが「ない」)。だが、その「欠如」や「不自由さ」は否定的なものではない。いわばその身体の「影」は、あらたなる身体を作り出すためのメディウムでもある(たぶん)。

 

 そう考えると《The way to move a hill》も楽しい作品であるような気がしてくる。書き忘れたが、《壁で踊る》のシリーズもよかった。松江の「前田が身体を思考するとき、そこには自身から遠ざけていこうとする軽さと、自身に引き寄せていく重さが同時に存在しているのだ」という言葉は、作品を見る実感としてもしっくりきた。

 

 影を描くという行為は保存の行為であると同時にあらたな存在を作成する行為でもある。恋人が消えてもその影を象った絵は残る。残ったモノからその時の感情を思い出すこともできれば、新しい感情や感覚を作り出すこともできるはずだ。面白い展示だった。

 

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