山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』その2

山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』の続き。

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言葉が書かれ、書き直されるたびに、新たな「私」と「宇宙」が創発する。その速度と密度が高まるにつれ、小説を書くことと、〈私〉を制作することは等しくなる。小説を書き直すことは〈私〉を書き直すことであり、それは生命に似た何か=小説を生み出す過程である。

しかし、どのようにして小説を書くことと〈私〉を制作するということが等しくなるというのだろうか。前回はこの論理的なつながりを問題とした。ここには私が言語的存在である、という強い前提がある。言語は私を形作る。とすれば、言語の高度な操作(の一つ)である小説を書くという営みを徹底化すれば、(もしかしたら)私も、世界もまた作り変えることができる。おそらく、そのような論理を考えているのだろう。

主体はどこからやってくるのか。この問題を言語を通して考え、理論を構築した存在として、本書には(ほぼ)登場しない固有名であるジャック・ラカンを挙げることができる。

「無意識は言語のように構造化されている」。一九五〇年代のラカンの有名なテーゼの一つだ。フロイトが発見した無意識という領域は、人間を根拠づけるが、しかし自らの力で見通すことができない。フロイトは夢や言い間違いといった行為から無意識へとアプローチした。ラカンレヴィ=ストロース構造人類学からヒントを得て、フロイトの理論を徹底させ、無意識は言語によってできていると提唱した。

それはどのような構造なのか。松本卓也による明快な整理を参照しよう*1

「その理論では、母親が子供の前に現れたり、いなくなったりする現前/不在の運動が「+−+−++……」というセリーを作ることが象徴界の母体となるとされていた。子供は、この母の現前/不在の運動がなぜ生じているのかを問う。つまり、母を現前/不在の運動へと突き動かしているものは何か、母という大他者にとっての大他者とは何か、ということが問われる。ついで、この問いには、母が欲望するものは想像的ファルスである、という回答がひとまず与えられる。最終的に、この+−のセリーが〈父の名〉のシニフィアンによって代理(隠喩化)されることによって、象徴界が安定する。この理論では、〈父の名〉による隠喩化が成功している者が正常者と地続きの神経症者であり、失敗しているのが精神病である。この構造論的なモデルでは、〈父の名〉は人間を神経消化する者として、ある種の規範的なものとして現れていると言えよう。」(115頁)

松本は続けて六〇年代ラカンにおける構造と外部、理論の書き換えを問題とするのだが、それは省略する。ポイントとなるのが、「正常化」(無論カッコ付きでしかあり得ない)を可能にするとされる〈父の名〉というシニフィアンによる代理=置き換えが、隠喩化と名指されていることである。隠喩によって、私たちの存在は可能となるのである。『新たな距離』においても、父性隠喩は前提として存在していると思われる。それはおそらく様々な固有名として挙げられるだろう。

「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」(1957年*2)で、ロマン・ヤコブソン失語症をめぐる議論〈「言語の二つの面と失語症のタイプ」〉を参照し、人間において換喩と隠喩の果たす機能の違いを論じている。

換喩は隣接性に基礎付けられている。「語に対して語を」とラカンはまとめている。例えば「三十の帆」で、「三十隻の船」を言い表すこと。あるいは、「赤ずきん」も換喩と言える。「赤ずきん」という言葉で「赤ずきんを被った少女」を表す。換喩の機能は「移動」で、精神分析においては欲望の対象を構成するとされる。ここで意味は増えず、横滑りする。

隠喩は相似性に基礎付けられている。「ある語に代えて別の語を」。例えばユーゴーの詩「眠るボアズ」において、「彼の麦束は、吝嗇でも恨み深くもなかった」と書かれるとき、「彼=ボアズ」は「麦束」に置き換えられる。あるいは「白雪姫」。雪のように白い肌を保つが故にそう呼ばれる。姫は雪に置き換えられている。隠喩の機能は「圧縮」で、精神分析においては症状を形成するとされる。このとき重要なのは、隠喩が使われるとき意味が発生=「シニフィカシオンの到来」することだ。置き換えられてもなお、ボアズも姫もその意味を保存された上で、新たな意味が付け加えられていることを考えれば、理解しやすいだろう。

幼い主体は母の現前/不在をファルス(想像的ファルス)を通じて解決しようとするが、それはうまくいかない。〈父の名〉による「置き換え」(父性隠喩)こそが、主体を安定化させる。

ヤコブソンは、言語の換喩的側面は散文において、隠喩的側面は詩において前面化されるとした。例えば小説においては、何らかの描写が別の描写を生み、また人物同士の掛け合いによって、まさに横滑りしていくかのように展開していく。詩においては韻律の音韻的相似性と意味的相似性が相互干渉することで新たな意味を生み出す。

前置きが長くなったが、『新たな距離』に戻ろう。

この散文と詩の問題において、興味深いのが次の一節である。

「たったひとつの文章が詩として置かれている状態では、無数の魂の方向性を、みずからを読む生きものの思考の要領にあわせて適度に焦点化させ、個々の人間を再帰的に作り出していくだけにとどまるざるをえない。しかしそこにいくつかの翻訳がならべておかれたとき、詩、ならびにそれを《自分の肉体=魂》につきさした人間は、翻訳対象として浮かびあがってくる無数の魂の存在、それを刻まれる〈森のフシギ〉へと近づき、みずからを新たな段階に推し進める可能性を与えられる。その過程として小説制作は、詩の制作とは区別して肯定されるだろう。言葉をうまく操れないみずからの息子が音楽や身ぶりによって表現しようとしているものと、神に対して人間が発するうめき声に近い祈りを、ともに《言い難き嘆き》として理解する大江は、魂の内部構造に近づく道を、語りの制作に関わる技術として伝えている。小説はそこでだけ、知覚全般へと開ける。」(141-142頁)

本書における特異な思考が現れている。ここでは詩における意味作用(「個々の人間を再起的に作り出してく」)ことに加えて、小説=散文においてこそ「翻訳対象として浮かびあがってくる無数の魂の存在」を踏まえた上での「新たな段階」が夢見られている。本書における小説=散文をめぐる思考は、換喩的というより隠喩的になっている。そのため、一文ごとに飛躍、負荷がかけられているための、その度ごとに何らかの意味が生じている。

しかも、この飛躍は恣意的なものではない。テクストへの信に支えられている。無数に参照される、小説から対談、エッセイに至るまでのテクストは文脈を切断され、思考のジャンプのために利用される。父性隠喩ならぬ父性テクストとでも言えるかもしれない。

「新たな段階」に賭けられているのが、おそらく「転生」なのだろう。松本卓也によれば、ラボルト病院でガタリと活動を共にしたジャン・ウリは自らとガタリの違いを「集団のファンタスムを認めるかどうか」という点に見出した*3ラカン的な立場を立つウリは、ファンタスムは個々の主体に固有のものであるとし、ガタリは個人と集団を超えたところでファンタスムを考えた。『新たな距離』で賭けられている「転生」とは、まさに「集団的ファンタスム」の制作を指す*4

「小説を書く私の信じているもの、それは転生である。父親から大黄へと、なにかが引きつがれるということ、それを信じて、私は文章を書いている。大黄は私に転生教育を行う。そのように、世界を読むことを教育する。」(162頁)

『水死』を読み、論じる中で、まるで小説内の私と『新たな距離』の著者である私が一体になっているかのようである。私は読者に対して「集団的ファンタスム」の制作を呼びかけている。

教育や分身、そして大江テクストの読解という点にはほとんど触れられなかった。だが、本書における制作を考える上で、ラカンガタリの思考を視野に入れることは実りの大きなものになるのではないだろうか。走り書き的なメモとして、ここまで書いた。他の人の感想も知りたい本だ。

*1:「人はみな妄想する ガタリと後期ラカンについてのエチュード」『現代思想』2013年6月号。

*2:フィンクの英訳と解釈を参考にした。『「エクリ」を読む』

*3:松本「人はみな妄想する」126頁。

*4:それでも私にとっては「転生」について書かれたテクストを「真に受ける」ことは難しい。