エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』その2

フェミニズムにとって精神分析の理論的に重要な核心部分とは、いまではほとんど決まり文句になってしまっているが、性的差異が文化的なものに還元できないのと同様に、性的アイデンティティ生殖器だけで決定されるわけではないという主張である」(エリザベス・ライト) 

この「決まり文句」はいまだに繰り返される必要があり、竹村和子も性的差異をどう考えたかは重要な問題ではあるが、竹村についてはひとまず置いておいて、精神分析と表象分析について、エリザベス・ライトが興味深い指摘をしていたので取り上げたい。


サルトル的な視線とラカン的なまなざしの混同

フェミニズムの映画理論家たちは、1970年代、クリスチャン・メッツは映画が無意識のレベルでどう作用するか理解するために精神分析によって理論化した。映画の「見たいという情動」と覗き趣味やフェティシズムとの関連を論じ、フェミニズムはじめ表象分析におおきな影響を与えた。

とくに影響力があったのが、「まなざし」という概念である。ラカンによれば、鏡像段階において、幼児は鏡を見ながら、母親(他者)のまなざしや声に反応することでそれらを取り入れる。その結果、主体(幼児)は他者の領域、社会的なもののなかに位置付けられる。まなざしという視覚的幻想によって主体は自己を構築する。

まなざしの概念を積極的に利用したのが、フェミニズムの映画理論である。しかし、ライトによれば、多くの人々は「まなざし」の概念と「視線」の概念を混同していると批判する。

フランス語の le regardは視線とまなざしの両方を意味するが、ラカンの翻訳者は「まなざし」(gaze)を、サルトルの翻訳者は「視線」(look)という単語を使っている。サルトルの思想においては、視線は主体の側にあるが、ラカンにおいては視線は他者(母親)の側にある。

映画の視覚的な支配体制が論じられる場合、視線とカメラが同一視され、カメラが主体の側にあるということになる。

「古典的なハリウッド映画では、カメラは普通、男性監督に管理されており、そこための観客の知覚は、男性の視線を組み込むように導かれ、フェミニズムの介入を呼び込むことになる。」

ローラ・マルヴィが代表的な論者である。マルヴィは映画における男性的視線という視覚的支配体制を告発した。「観客に、抑圧的な性のシステムと結託しているという焼き印を押したのである。」

80〜90年代になると後期ラカンの思想が紹介され、メッツやマルヴィのラカンのまなざし概念の誤用が指摘されるようになったという。かれらの映画理論では「主体がスクリーンのイメージによってあまりに強く決定されるものとして提示されている」。ここではスクリーンは鏡像段階的な鏡と同一視されているため、想像的なナルシシズムの閉域に閉じ込められていることになるのだ。

しかし、当然のことながら映画(体験)とナルシシズムは同一のものではない。ライトによればポストフェミニズムの映画理論は、ラカンの「目」と「まなざし」の弁証法を理論化する方向へと移行した。象徴界の秩序に拘束された目と、ナルシスティックな幻想を追い求めるまなざし。主体は、想像的な幻想と象徴界の要求、すなわち他者の欲望との間の葛藤に巻き込まれている。繰り返せば、まなざしとはあくまで、他者のまなざしを指す。主体の視線ではない。視覚は鏡ではなく、スクリーンとして考えることができる。映画体験には他者性の介入が不可欠である。

「スクリーンの主体はナルシシズムを映す単なる鏡ではなく、スクリーンにーー主体のまなざしに触れ、それに挑む、異質で不透明な要素にーーなるのである」(※この引用で、主体「の」まなざし、となっているのは、主体「が」まなざしに触れ、の間違いではないだろうか)

この移行により、90年代のフェミニズム映画批評では、フェティシズムと覗き見趣味のメカニズムの分析から、幻想の構築、主体と他者の弁証法を視野に入れた分析へと変貌した。

ライトが取り上げるのが、フィルム・ノワールへの注目である。具体的な作品があげられていないのは残念だが、「宿命の女」が登場するいかにも男性的ジャンルにたいして、この新たなフェミニズム映画批評は、むしろ女性の能動性を見出す。

フィルム・ノワールは、幻想の客体としての女性が、自分のファルス的属性を使って自分自身を魅力的に仕立て上げようとしているという意味では、(※リヴィエールのいう)仮装の問題を縮図的に示している。しかし、そうはいってもやはり、こういした同一化は、フィルム・ノワール脱構築的に楽しめる女性の観客に提供された能動的な場になりうるのである。」

ラカン的まなざしの走り書き的解説

近年のSNSーーいや社会でと言ったほうがいいーー「まなざし」の問題はしばしば批判されている。ある新聞の広告は男性的なまなざしの産物であるといった批判である。おおむね視線の意味として理解できる。

むしろ、ラカン的なまなざしが特異なあり方としてある。それは他者という語が単なる他人や「別の人や集団」という通常の意味とは違うことに起因していると思われる。

精神分析においては、他者は個人とは関係なく、自律性をもったひとりひとりの自己が幻想として扱われる象徴体系として論じられている。他者とは、現実を決定したり、私たちの選択を指図したりするようなものではなく、実現することのない約束を介して構成的な欠如を乗り越える構造である。」

どういうことだろうか。基本的な文献である『精神分析の四基本概念』を参照しよう。

「ここで(※サルトルのテクストで)言われている眼差しは、まさに他の人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我々が把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を眼差している他の人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのが、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか」(「Ⅶ アナモルフォーズ」)

ラカンの理路を暴力的に要約すると次のようになる。主体は言語の世界=他者の領域=象徴体系に参入するなかで、存在欠如を被る。この失われた存在を代理するのが対象aである。ラカンによれば、まなざしとは見る主体に先行するもので、その成立において必然的に失われる対象aとして存在する(鰯缶のまなざしのエピソード)。対象aとは意識的経験の中では十全な姿を見せない(ホルバイン『大使たち』の歪んだ髑髏)。無化する主体、つまり去勢された主体の存在欠如の徴としてのみ存在する。

他者の眼差しとは他者の欲望である。去勢とは他者の欲望からの分離を意味する。「欲望の機能の中に根をはっている主体」とは、欲望を埋め込まれた主体を指す。

つまり、ラカン的まなざしとは他者の欲望の現れであり、主体はその謎めいた他者との対峙の中で欲望の主体として構成される。

 

ラカン的まなざしを把握した上で、マルヴィに戻りたい。

マルヴィによれば、すべての映画やイメージは家父長制の痕跡があり、その視覚的快楽は破壊される。この種の批評は解釈としての鋭さがあるものの、その結論は単調である。むろん、社会が家父長的なのは事実であるので、その批判が無意味なものとは言えない。

マルヴィの映画批評は今日的な表象分析の範例としてある。それはある種の検閲の比喩で語られてもいる。視覚快楽の破壊を意図しているのでそのような反応が出るのは当然だろう。

しかし、それだけに留まるものなのだろうか。

出発点にもどれば、マルヴィが問題としたのは女性の無意識である。ラカンの性別化の式はあくまで去勢やファルス機能から演繹されたものであり、そうではない性のあり方とはどのようなものなのだろう。

疎外(と分離)のあり方はさまざまなバリエーションがあるはずだ。

余談だが、拒食症は女性が圧倒的に多いことがしられている。これについてのラカン派の分析があり、疎外と分離(の不全)にかかわるという。

そもそもセクシュアリティの謎は他者という謎に由来する。この謎への対処には去勢やオイディプス・コンプレックスだけが正解とは限らない。はたしてどのようなものなのか。

ローラ・マルヴィのテクストに戻って考えてみたい。