PARAレクチャー・福尾匠「なぜ制作だけでなく作品があるのか」感想(というほどではないメモ)

 神保町で福尾匠さんのレクチャー「なぜ制作だけでなく作品があるのか」を聞いてきた。PARA「作品とは何か」レクチャーコースの第一回だという。90分とは思えないほど充実した内容だった。

 

 あいちトリエンナーレ2019をインスタレーションの問題として考えることから始まり、ハイデガーベンヤミン、ハーマン、クラウスをインスタレーション論、作品論として読み変えていき、大和田俊、佐々木健の展示を分析し、「表現とは何か」という問題まで踏み込んでいく、という大変スリリングなレクチャーだった。詳細についてまとめる自信はないので省くが、福尾さんは「作品」という存在を理論の問題として捉え、尚且つ個別の作品の存在を消去しない、という論理の筋道を探究しているように感じた。それはきっと「制作」の新たな側面に光を当てるものでもあるだろう。

 

 ところで、福尾さんはレクチャーのまくらとして「作品に対する疲れ」という現象が起きているのではないかという話をしていた。二時間の映画を見るより、数分の動画をたくさんなんとなく見る方が楽でほっとしてしまう。作品というきっちりとしたものよりも、動画の方が生活実感として心理的ハードルが低い。もちろんその感覚に対してもどかしさもある、と。

 

 たしかにわかる話だ。YouTubeなどの動画は「パフォーマンス」の記録としても考えられるが、作品というほどきっちりしていない、というか、ゆるい。生活の隙間に差し込むにはちょうど良いのかもしれない。環境音楽的とでも言うのか。一方で、作品という存在はどうしても鑑賞者に「分裂」をもたらすものだから、疲れるのも仕方ないとも思う。となると、どう(やって)作品に出会うか、が問題なのかもしれない。わたしたちがわざわざ作品を見に行くのはどうしてなのだろう。何を求めて疲労を超えて作品を見に行くのか。

 

追記(10/2)

福尾さんの日記でレクチャーの内容について触れられていました。

https://tfukuo.com/2022/10/02/%e6%97%a5%e8%a8%98%e3%81%ae%e7%b6%9a%e3%81%8d178/