『ルジャンドルとの対話』

ピエール・ルジャンドルルジャンドルとの対話』(聞き手フィリップ・プティ森元庸介訳、みすず書房、2010)を読んだ。

ルジャンドルは「ドグマ」と言う「呪われた語彙、理解されなくなった語彙」を蘇生させた。その由来であるギリシャ語の「ドクサ」は見えるもの、現れているもの、それらしく思われてるもの、夢の光景、装飾といった意味がある。ドグマにまつわる「権威的な思考」「自由な思考への憎悪」といった意味を帯びるようになったのは最近のことだという。

社会の根底にはドグマがある。典型として、「書くこと、綴り方を学ぶこと」がある。「現今の社会にあって第一の儀礼」である文字の綴り(文字の順番)がそうであるのは、そう決まっているから、としか答えられない。文字を書く練習を通して「自己を自己から切り離し、人格を形成する」(41頁)。西洋においては、法が担った「禁止」の機能も、典型的なドグマである。

ルジャンドルによれば、社会を〈テクスト〉として、つまりドグマとその解釈による制度のモンタージュとして考えた。訳者である森元の注が簡潔にまとまっているので引用する。

ルジャンドルは八〇年代以降、社会に変わる概念としての〈テクスト〉を、いわば思考実験的に打ち出している。基礎となるモデルは「書かれてある」ことを規範成立の根拠に据える西洋の法律主義であり、その具体的発現として、注釈の連鎖としての法文書、行政機構における書類生産といった現象が挙げられる。また、このテクスト性を構造のレヴェルへ繰り込むことで、「無文字的」とされるそれを含めた社会一般を、広義の言語作用のモンタージュとして考察する視点が導出された。」(31頁)

ルジャンドルはこの発想をラカン鏡像段階論から得ている。

「わたしが鏡を見る。その場面には三つの項があります。まずは、見つめる主体、つまりそこにあって己を映し出している身体です。ついで、鏡のうちの像がある。それは入り込むのことのできないもののメタファーです。そして三番目として、踏み越えがたい場所、絶対権力のメタファー、つまり鏡があります。」

「権力の人類学は三項的な構造を通過する。つまり組み立てる権力のことです。何を組み立てるのか。人間の元手となる破片や欠片です。このことを考えるには、人間が分割されているということを考えなければなりません。鏡のメタファーの眼目はそこにあります。」(134頁)。

ルジャンドルはここで、ボルヘス「鏡と仮面」(『砂の本』)を参照していてとても読みたとなるのだが、ともかくラカンは「精神分析経験の中で明らかにされる〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」(1949)で生後6ヵ月から18ヵ月の時期を「鏡像段階」と名付け、自分の身体の統一された像を持たない幼児が、鏡に映る自分の姿を見て、他者(親)の承認のもとに疎外として引き受けることを論じた。

鏡を見る幼児(「見つめる主体」)は、鏡に映った自分のイメージ(「鏡のうちの像」)という自分自身ではないイメージを自分であると他者(親)の承認を通して認識し歓喜する。50年代のラカンは、想像界における「誤認」が象徴界の「承認」によって調停される(『オイディプス王』)ことを追求した。ルジャンドルは「鏡像段階論」における他者と鏡というモンタージュを「踏み越えがたい場所、絶対権力のメタファー、つまり鏡」を第三項(象徴界)として措定する。疎外とは「人間が分割されている」という証である。

ルジャンドルは歴史とは線ではなく(発展史観の否定)、層をなしていると考え(「私たちを支えている地層」)、西洋における第三項である制度や儀礼の歴史(ユダヤ教の固有の規範性を切り捨てたキリスト教が支えにしたローマ法が中心にある)を探求してきたという。

「わたしが導入した〈テクスト〉という概念を介すると、西洋というものがいかにして意味を、そして(略)解釈学を構築しているのかということが見えてきます。西洋に固有の人間と世界の解釈のシステムが見えるわけです。(略)誰も他人の代わりに夢を見ることはできない。それと同じように、文化というのは孤独の産物、つまりアイデンティティの構成の産物なのです。〈テクスト〉のレヴェル、つまり文化のレヴェルにおけるアイデンティティの構築を扱う学はいまだ存在しません。それがわたしの仕事の対象領域なのです。」(76頁)

ルジャンドルは『他者たらんとする情熱』という魅力的な書名を持つダンス論を78年に刊行しているが、ドグマの「見えるもの」としての特性において「劇場」やそれを成り立たせる「儀礼」は重要な問題だと論じている。

「劇場化、それは世界の核心にあるものです」(48頁)。ルジャンドルノルマンディー地方での幼少期において、カトリック的な儀礼に包まれて暮らしていた。「どんな意味があるかなど知る由もありません。それでいながら、実に詩的な讃美歌をラテン語で歌っていた。ラテン語は秘密の言葉と同じだったのです」。謎めいた儀礼は謎として生を支える。

ルジャンドルは幼少期と同じことをアフリカ(主にマリらしい)で再発見する。

「わたしの子供のひとりがこのこと、つまり他なるもの、根本的に他なるものとの接触について、とてもよい証言をもたらしてくれたことがある。私たちはハンパテ・バーと食卓を共にしていた。子供は、当時、四、五歳だったと思いますが、こんなふうに訊ねたのです。「ねえ、どうして黒いの?」と。バーは答えました。「それはね、あまりに長いことオーブンのなかにいたからだよ」と。子供向けの答え、そして完璧な答えです。これこそ他性の謎です。」(49頁)

この本で一番美しい場面だろう。ルジャンドルによれば、この返事こそが他者の他者性を尊重した「他者の実存に対する敬意」に満ちた答えだという。子どもの「赤ちゃんはどこから来たの?」という質問に対する「コウノトリ」という(答えになっていない)答えも、謎として機能していると言えるかもしれない。

ルジャンドルラカンの「鏡像段階論」を歴史的に敷衍し、加えて、儀礼や制度、ダンスといった「見えるもの」のレヴェルにおいて、主体のあり方を考えた思想家であると要約できるだろう。たとえばこの観点から宗教をも単なる「信条の自由」に関する理解ではなく、「制度」と絡めて理解することができるなど応用可能性は大きい。

しかし、問題はここからである。ルジャンドルは、現在は「ポスト・ヒトラー時代の社会で生じた脱制度化」の帰結として「逆さまの世界」が実現していると非難する。保守主義者としての顔を顕にする。

「謎の次元、理解できないものの、次元を取り除くと、生はありえなくなってしまうということです。あるいは、生はなまくらになって、ただ、あれやこれやを食い潰すだけのものになってします。わたしたちのいまの生き方は、社会化されたダーウィン主義です。そう呼ばれることは決してなく、民主主義なるものを装っているわけですが。」(48頁)

加えて、トランスジェンダーセクシュアリティについての極めて保守的、ウィルやハナダ並といっていいくらいの愚劣な見解の数々が紹介されている(引用はしない)。ルジャンドルは人間という「アクシデントに遭った種」(26頁)にとって言葉の世界との関係こそが本質的なものであると考えたにもかかわらず(「ジェンダートラブル」!)。

これは何に由来するのだろうか。ラカン精神分析理論を超歴史的に応用していることから来るのか。キリスト教の歴史に由来するのか。それとも性差という人間にとっての根本的なドグマの「堅固さ」(ウィトルウィウス)を物語るものなのか。そして何より、性差別なきドグマ、「他性の謎」はいかに構想できるのだろうか。