カデール・アティア 《記憶を映して》(2016)

 国際芸術祭「あいち2022」に行ってきた。と言っても、時間的都合から愛知芸術文化センター一宮市会場の一部しか見られなかった。

 

 わたしが見た中で最も印象的な作品だったのが、カデール・アティア Kader Attiaの《記憶を映して reflecting memory》(2016)だった。

Reflecting Memory, 2016  

 

 本作は「幻肢痛」をテーマとした40分程度の映像作品だ。事故や病気のために手足を切断した後、既にないはずの手足の痛みを感じるという症状。日本でベストセラーとなった『脳の中の幽霊』でも取り上げられていた。

 

 本作では外科医や作家、義肢装具士、精神病理の学者たちといった専門家からミュージシャン、ダンサーなど様々な人々のインタビューから構成されている。

 

 専門家のインタビューとミュージシャン、ダンサーのインタビュー、そして時々インタビューされているわけではない人々が挿入される。最後のカテゴリーの人々は教会で祈ったり、事務室で座っていたり、森や公園の中で仁王立ちしたりしているのだが、ある方法で映像の終盤に元患者であることが明示される。

 

 本作が面白いのは、幻肢痛の話が歴史的なトラウマや人種主義やホロコーストに接続されることと、元患者よりも専門家たちがペラペラ喋っているところだ。

 

先に後者について書くと、普通、幻肢痛についてのドキュメンタリーを撮ろうとした場合、「当事者」の話をメインにして、補助的に専門家のインタビューを挿入するという構成にする。だが、本作ではもちろん元患者であるダンサーやDJもインタビューを受けているのだが、座ったままの男性や女性、仁王立ちしているだけの男性などは一言も喋らないのだ。これは幻肢痛を単なる「特殊な症状」として扱わず、「幻」という存在、歴史的なトラウマの話に展開するための選択と言えるのかもしれない。

 

 不在の身体が痛むように、そこにないはずの過去の辛い記憶が回帰して苦しみをうむのがトラウマだ。家族の死、戦争や民族紛争の記憶、ホロコーストの経験は何十年経っても、生存者を苦しめる。

 

 驚いたのは、精神分析の専門家としてフェティ・ベンスラマが登場したことだ。ラシュディ事件を論じた『物騒なフィクション』で知られている。丸々としたお爺さんという体で、おそらく二回以上インタビューを受けていた。感想を検索してもベンスラマに言及している人はいなくて、日本での知名度の低さにがっかりした。

 

 ベンスラマの方法は社会の存立の前提に精神分析的な問題を求めるというアプローチとでも説明すればいいのだろうか。本作では、共同体にとっての死者や共同体が幽霊という存在を必要とすることについて、また政治体や教会について、雄弁に語っていた。印象に残っていたのは、「宗教が自ら変わることはなく、社会が変わることで宗教の側も変化を余儀なくされる」とう指摘。これはキリスト教も同じ過程を経ていて、イスラム教についても同様だろうという見立てだった。

 

 タイトルの「記憶を映して reflecting memory」とは、幻肢痛の鏡を使った療法から来ている。ダンサーが鏡を使わなければ、自分の身体がわからないと言っていた。これは療法のことを指しているのだろうし、手を失う前のダンサーとしての経験からも来ているのだろう。鏡というモチーフは視覚的にも活用されていて(そういえば精神分析では鏡像段階が理論的な基盤である)、元患者たちの目の前には衝立のように鏡が置かれていて、まるで手足があるかのように映像に映っている。本作でインタビューされない元患者たちの寡黙さが強く印象に残るのはreflect(熟考)している様が際立つからなのかもしれない。

 

 トラウマの克服には喪の作業が必要であるという。ただ黒人差別の専門家が、人種差別の現実は進行中の問題であり、喪というより鬱というべきであるという指摘をしていた。

 

 精神科医のインタビューで本作は締め括られる。15歳で窓から落ちるという事故で手術を受け、のちに自身も神経外科医になった人物とのエピソード。再会後の手紙には、同じ手術室に来られて嬉しい、ここから自分の人生は始まったんだ、という言葉が書かれていたという。本作はこの言葉で閉じられている。

 

 そのほか音楽のダブはレゲエから歌などを引いた幻のようなもので幻肢痛に似ているというミュージシャンの指摘も面白かった。幻というモチーフでさまざまなものが繋げられている。

 

 カデール・アティアはアルジェリア系の移民としてフランスに生まれ、フランスとアルジェリアで育ったという。「幻」の探究が社会や歴史の問題に接続されて作品を作られているのがよかった。

 

 雑然と書いてしまったが、「あいち2022」では他の作品も面白かった。奥村雄樹さんのルーシー・リパードの展示の再現、百瀬文さんの過去作《ヨカナーン》も見たことがあったのでちょっと覗くだけのつもりが引き込まれて最後まで見てしまった。唐突に股間を弄るジェスチャーがおかしい。

 

※※

 

ところで、「あいち2022」にとってトラウマとも言えるのは前回の「あいちトリエンナーレ2019」だが、わたしが見た限りではその点について明示的に言及した作品はなかった。日本の植民地主義を取り上げた作品も見つけられなかった(見落としているか、あるいは他の会場にあるのかもしれない)。

 

むかし柄谷行人が「遠い他者」と「近い他者」について書いていたことを思い出す。一般に考えられているのとは逆に、時間的にも空間的にも離れている「遠い他者」について考えるよりも「近い他者」について考えることの方が困難を抱える。トラウマは忘却したと思っても回帰する。新たなスタートとなるはずの「喪の作業」は次回のトリエンナーレに持ち越されたのだろうか。

 

 

ベンスラマはこんな顔https://en.wikipedia.org/wiki/Fethi_Benslama