山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』その1 私は転生しない

山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』(フィルムアート社、2024)を読んでまず考えたのは反復についてだった。次に考えたのが、フロイト-ラカンのことだった。繋がるかわからないが、下記になぜそのように考えたかを書いてみる。

本書は小説論≒制作論である。難しいが、とても面白かった。保坂和志大江健三郎の小説論の影響のもと、生態心理学、認知言語学から吉本隆明詩学、多元宇宙論までを援用し、オリジナルな議論を展開しようとする大著で、なんと三部作という。

本書を暴力的に要約すれば、読むことと書くこと、生きることをつなげる試みであると言える。

本書は膨大な引用ともになされる思考に特徴がある。例えば註の爆発的膨張。反アカデミックなスタイルで貫かれた註は、ある種の読書メモでもある(一例。172頁-181頁下段は大江健三郎「子規の根源的主題系」で埋め尽くされている)。読んだテクストとそれに触発された思考は一体となっており、まるでドキュメントとして無数の引用が喜びとともに散りばめられている。通常の意味での論拠とは異なり、そこにある固有名と結びついたテクストがあったということを呈示している(故に、実際にそのテクストを読んでみたくなる)。また書評においても論じられる対象のテクストが内部に取り込まれ、一体となっているのも特徴的である。批評と創作とが近接しているのだ。

読むことと書くことが密接につながり、読むことにおいてもそのつながりをたどることなっている。それはいわゆる生成論的な草稿研究とは異なる。完成にまで至る創作過程を比較・検討するのではなく、残されたテクストから、書く行為を見透かし、生の軌跡を見ようとするのである。今回主に取り上げたいのは、「新たな距離ーー大江健三郎における制作と思考」である。

「何気なく見ただけだと一本の文字の列が紡がれているだけのように見えるテクストが、その制作過程においては、細部でひたすら寸断され、上書きされ、配置を組み替えられている。そんな性質をもつ小説の制作空間には、膨大な量の私と、それに付随する環境が、致命的な矛盾をいくつもふくんだまま刻まれてしまっている。言葉ごとに前後左右へ多元化する、私と宇宙がいる。」(102頁)

小説は絵画と違って一挙に与えられることがない。小説はリニアに読み、書くことしかできない。文章を読みつつ、同時それに続く文章を忘れている。『華氏451』のように小説を全て記憶することはできない。書く場合においても同様である。

書くこと、書き直すことで生まれる、「膨大な私」とはどういうことだろうか。ここでは、ロナルド・ラネカーの認知言語学が援用されている*1。言語表現はその受け取りに際にして、ある仮構を触発する。それは「表現主体とその周囲の環境」という仮構である。

・アンはテーブルを挟んでベスの向かいに座っている(A)

・アンはテーブルを挟んで私の向かいに座っている(B)

・アンはテーブルを挟んで座っている(C)

Aにおいては、表現主体が「アンとベスがテーブルを挟んで向かい合っている」様子を外から見ていることを示すように読める(表現主体が状況を外から認識)。

Bにおいては、表現主体である私が、「アンと向かい合っている」ことを外から見ていることを示すように読める(表現主体が客体として書き込まれ、状況を内から認識)。

Cにおいては、明示されていない表現主体が「アンと向かい合っている」ことをすめすように読める(状況を表現主体が内から認識)。

A、B、Cによって受け手に伝わる表現主体のあり方や環境との関わり方、「表現主体とその周囲の環境」の情報は異なるのだ。

いずれにせよ、言語は単に書かれている内容を受け渡す媒体ではなく、書かれている内容以上のもの、つまり 「表現主体とその周囲の環境」を遡及的に仮構する。

101頁で例として挙げられているのは柴崎友香『ドリーマーズ』の一節をもとにした一文「私はうれしかったからあなたもうれしかった」である。

「「かった」に過去への判定者を、「から」に因果律の設定者を、「も」に類似の発見者を、各々のしかたで見出し、かつ、それらをひとつの(文章全体の責任を自身の周囲のの環境もろとも背負う)〈私+環境〉へと束ねていくことで一文を理解する。同時にそのような見出しと束ねを私が行えているということに、私は私が或る特定の言語に習熟した、他でもない人間という種に属する肉体を備えた(虫や猫の肉体が為すような環境との関わり方を取ってはいない)存在であるということを否応なく自覚しもするだろう。」(101頁)

「私はうれしかったからあなたもうれしかった」に無数の「表現主体とその周囲の環境」を読み込む。これを解読するには、日本語に習熟している必要があり、また人間という肉体を持つものである必要がある(機械には理解できない?)。

言葉には文のレベルだけでなく、単語のレベル(「犬!」といった一語の文も成立する)においても、「表現主体とその周囲の環境」が取り憑く。ゆえに「かった」「から」「も」といったレベルにおいても「表現主体とその周囲の環境」を見出すことができ、その無数の主体は矛盾しながらも一つの文章としてリニアに同居することができる。最初の引用に戻ろう。

「何気なく見ただけだと一本の文字の列が紡がれているだけのように見えるテクストが、その制作過程においては、細部でひたすら寸断され、上書きされ、配置を組み替えられている。そんな性質をもつ小説の制作空間には、膨大な量の私と、それに付随する環境が、致命的な矛盾をいくつもふくんだまま刻まれてしまっている。言葉ごとに前後左右へ多元化する、私と宇宙がいる。」(102頁)

この文章は次のように続く。

「そしてそれら個々ばらばらの生態学的情報は、生まれた瞬間の私と死ぬ直前の私がおなじひとつの私であるようなしかたで、ひとつの形~奥行きへと押しこめられるだろう。小説という無数の言葉の集まりを制作すること、或る一定の(不可避な)持続を備えた〈私〉を制作することが、人間においては、同じひとつの回路によって成り立つ。」(102-104頁)

文章には「膨大な量の私と、それに付随する環境」が刻まれている。それは読まれるたびに、発生し、忘却され、読者に何がしかのものだけが残されていく(「かれの手にあるのは、いわば残りカス」)。一続きの文章は「生まれた瞬間の私」と「死ぬ直前の私」が同じ肉体を持つ人間である「私」と類比されるように(この二人の「私」は果たして一体誰なのだろうか)、或る形をもつ。小説ととは「膨大な量の私と、それに付随する環境」が刻まれた文章の集合である。

ただしこれはあくまで「類比」のはずである(「生まれた瞬間の私と死ぬ直前の私がおなじひとつの私であるようなしかたで」)。小説には「膨大な量の私と、それに付随する環境」が取り憑いている。それはおそらくそうだろう。だが、読み手にとっても、そして書き手にとっても読み終えた時に手元にあるのは「残りカス」ではなかっただろうか? 小説を書くこと、と〈私〉を制作すること(!)はいかにして繋げられるのか?

この部分が難しい。私にとって躓きのポイントだった。

鍵となるのが『同時代ゲーム』における〈森のフシギ〉という奇妙な概念であり、大江によって繰り返し語られる発熱し衰弱した大江にかけられた母の言葉である。

「もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。」(『取り替え子』)

本書ではこの言葉は次のように解釈される。

「たとえ別々の肉体を持つ別々の子どもであったとしても、言葉を与えることによって《ふたりの子供はすっかり同じ》になってしまうという、この考え方をよりどころにして、大江は魂=主体を言葉の集まりから創発するものと見なし、肉体の死とは別に持続する私を確保する。」(100頁)

ちなみにこの母の言葉は伝承の中に由来を見出されるものとしても書かれているため、これ自体が「歴史の反復・転生を為すものとして、小説内で神話的配置を整えられている」とも注釈されているのだが、この「転生」はにわかには受け入れ難い。私は転生しない、と言いたくなる。

ともかくここでは、言葉の連なりから、書かれた私と宇宙の連なりから、ジャンプして「魂=主体」が創発するというある種の神学が前提とされている。この神学によって、小説を書くこと、と〈私〉を制作することはイコールで結ばれる。

「書き直しが《自分を発見し、新しい自分を作ってゆく》過程になるとき、小説家は私でなくなりながら私をつかみ抱え、小説はいつのまにか生命に似はじめている。」(108頁)

おそらくこの創発神学とでもいうべきものは、創作過程においては、実感として生じるものなのかもしれないが。

本来であれば〈森のフシギ〉(『同時代ゲーム』)の核にあるという「私が私であること」の空白(ブランク)をめぐる思考(荒川修作の〈ブランク〉概念と共通するという)*2や大江における多宇宙的思考や神秘主義の問題を検討すべきなのだろうが、その能力はない。おそらく次の箇所が関係するのではないか。

「言葉が単文に回収しきれない視覚的(聴覚的、触覚的……)情報を強引に表現しようとするときに生じてしまう、言葉のレイアウト、ならびにそのレイアウトが自らに触れる肉体に強いるところの、思考・想起の様態によって、小説の制作行為は、読み手を巻き込みながら、「私の思考の制作」、さらには「(ちりぢりな)私による(まとまりの)私の制作」という事態にまで直結しなければならなくなる。」(93頁)

現実の複雑さを写し取った一連の言語の連なりを読み、読み手や書き手に並列分散処理的思考による圧縮の負荷が生じ、肉体を意識させ、ある種の「私」が立ち上がる(それはあくまで「読む私」(あるいは「書かれつつあるものを読む私」)ではないかと思うのだけれど、「+宇宙」つまり多宇宙的世界観が関係するのかもしれない)。

「こうして〈森のフシギ〉がいくつもの言語を、それをもちいる生物群の生態全てを象徴する視覚情報へと圧縮したように、みずからの持続を、言語依存的ではない方法でかたちづくろうとする小説の姿が、かいま見えることになる。文章のひとつひとつから得られる構文論的・直列的な思考ではなく、いくつも矛盾した文章らの総体が紙面の手前側に立つ肉体ないし私を巻き込み使いながら一挙に作り出そうとする並列分散処理的思考への、飛躍の身振り。外部から言語を通じてもたらせる刺激によってみずからの輪郭がほどけることを、逆にみずからの組成の一部としてもちいてしまわずにはいられない、そんな頑健さを演じる構造体のようなものが、のっそりいる。」(108頁)

まだ本書を掴みかねている。そのため反復についても、フロイト-ラカンにも触れられなかった。代わりに『新たな距離』とも共通すると直観するテクストを二つ引用する。

「なぜ書くのか。作品を見るという経験をわたしが言葉で書くとき、何をしているのかというと、「霊をコンポーズ(compose)する」ために書いている、と言うことができます。書くことは、霊をコンポーズすることである。「コンポジション(composition)」は構図・作文・作曲というような意味で使いますけど、共に置く、収める、鎮めるという意味を持ちます。(略)

 コンポーズされたもの、共に置かれたものたちの付置を、自分自身の身体の付置=態勢をとおして分解することが作品を見ることなのだ、というのが『かたちは思考する』の序章で書いたことでした。しかしそれはまだ事態の半分しか述べていない。その内側がある。わたしの呼吸、わたしの息をとおして、霊が作品の形象に巻き込まれるときーーそれはわたしの性的身体が触発されることで始まるプロセスだと考えているのですがーー、霊は複数化し、作品形象に絡まりつつばらばらに荒々しく立ち上がる。それら複数の霊を鎮めるという意味でコンポーズという言葉を使っています。コンポーズには、ぐらぐらしている事物や心を鎮めるという意味がある。作品と向き合い、巻き込まれることで、抱えきれぬほどに複数化した霊たちをひとつに鎮めるということが、自分にとっての「書く」ことです。」(平倉圭「霊をコンポーズする」)

「たまたま地上に

 ぼくは生れた

 生ける人間として

 ぼくは大きくなった

 デッサンの中に閉じこもって

 日々が過ぎた

 夜々が過ぎた

 ぼくはああした遊びをみなやってみた

 愛された

 幸せだった

 ぼくはこうした言葉をみな話してみた

 身ぶりを入れ

 わけのわからぬ語を口にして

 それとも無遠慮な質問をして

 地獄にそっくりな地帯で

 ぼくは大地に生み殖やした

 沈黙にうち克つために

 真実のすべてを言いつくすために

 ぼくは涯てしない意識のうちに生きた

 ぼくは逃げた

 そしてぼくは老いた 

 ぼくは死んで

 埋葬された」

ル・クレジオ『愛する大地』豊崎光一訳)

 

続く。

 

*1:認知言語学については山本「言語表現を酷使する(ための)レイアウトーー或るワークショップの記録 第一部ーー主観性の蠢きとその宿」を参照した。

*2:書けなかったが、おそらくここからラカンへと接続することは可能だろう。「私が私であることの空白」とは「存在欠如」のことではないか。そのうちラカンにおいていかに「私」が立ち上がってくるのかを考えよう。