木庭顕『ローマ法案内』

2010年の羽鳥書店版。「君がいきなり街中で或る男から「お前は私の奴隷ではないか」」と言われ捕らえられるという想定から始まるのが、可笑しい。

「自由に関する限り、十二表法に少なくとも根を持つもつ一つの大きな制度が存在する。君がいきなり街中で或る男から「お前は私の奴隷ではないか」「昔の私の女奴隷が生んだ後盗まれたあの子ではないか」と言われ捕らえられたとしよう。君の父親がそこにいて「いやこれは私の息子だ」と言って応戦してくれれば、とにかく君の側は被告の立場に立ちうる。相手はいちいち事実を証明しなければならない。DNA鑑定の精度がどんなに上がったとしてもオーテトマティックな判断は問題である。しかし生憎父親は不在で、一旦その男が君を確保し時間が経ったとしよう。父親は原告として取り戻されなければならない。これは大変である。DNA鑑定も信じて貰えるかどうか。こうして、父親であると主張する者はアプリオリに被告の立場に立つ、という推定原理が出来上がる。不在にした父親にこの抗弁が認められる。しかし、もし父親がそもそも居なかったならばどうなるか。君は天涯孤独である。このとき誰も応戦しないから、占有はもとより、後段に立ち至って自由を証明するチャンスさえ失われる。これは余りにもひどい。そこで、自由であると主張する側には誰でも立ち、かつそれが正しいと推定される、という準則が付加される。これが占有原理のコロラリーであることは自明である。そして取得時効と同じ精神に基づくことも自明である。このジャンルの訴訟を自由身分訴訟causa liberalis と呼ぶ。やがてこの「誰でも」君は一層攻撃的になる。いきなり誰か奴隷を捕まえて「この男は自由だ」と叫ぶ。するとたちまちそれが正しいということが推定され、相手は必死に「実は奴隷である」ことを証明しなければならない。奴隷として買ったという売買の契約書を持って来ても虚しい。そもそもその前に浚われたのであるかもしれない。どこまで言っても浚われていない、ずっと奴隷であるなど、どうやって証明するのか。これが「自由のための取り戻し人」vindex libertatisであり、ローマでは好まれた姿である。そして、人身保護の観念こそは自由ないし人権の歴史的コアであった」74頁