「影をしたためる」

 9月11日。渋谷のbiscuit galleryにて「影をしたためる notes of shadows」(松江李穂キュレーション)を見てきた。美術作家の菊谷達史、前田春日美による二人展である。

 

※三人のインタビュー

https://bijutsutecho.com/magazine/interview/oil/26027#.YybTgVVFAlo.twitter

 

 一階には菊谷の作品、二階には前田の作品があり、三階には菊谷と前田の映像作品がメインだ。

 

 松江のテクスト「影をしたためる One note on the shadow」によれば、菊谷は「iPhone上に残された身近な記録写真や映像をもとに虚実を織り交ぜながら、ポップアートや近代絵画、イラストレーションを混合させた平面作品やアニメーションを制作してきた」。記録された写真や流通するイメージとは「現実世界の二次的な副産物」であり「影」であるという。ひと昔前であれば、シミュラークルと呼ばれたものだろう。

 

 インタビューによれば、「絵画の起源は去り行く恋人の影帽子を壁に残した」ところから始まったというプリニウス『博物誌』にある「絵画の起源」のエピソードが今回の企画の出発点にあったらしい。

 

 ストイキツァ『影の歴史』で読んだ記憶がある。恋人の影の絵。それはたんなるイメージではなくて、イメージ(影)のイメージ(絵)である(ことが論じられていた気がするが、記憶に自信がない)。影をしたためるとはこのことを指すのだろうか。

 

 菊谷の絵画は小さく(ゼロ号というやつだろうか)、スマートフォンを横にしたようにも見える。ある作品の額縁にサインペンで「草をかる様に、石を取る様に、写真を撮る。獲る」と殴り書きされていたが、わたしたちはプリニウスの恋人たちのように、iPhoneに恋人や家族の写真を収めている。それはまだイメージ(影)でしかないので、菊谷はまさに「イメージのイメージ」として絵画を描いている、のかもしれない。

 

 二階には前田の近作・新作が展示されている。《vis a vis》(2020)は、アコンチ的な映像作品。ただアコンチがカメラ=鑑賞者を直視して指を指すのとは違って、前田はカメラの前に片方の手のひらを広げ顔を隠す。カメラもそれに向かい合う前田も動いているため、画面がゆらゆらと揺れている。前田の作品にはいわばルッキズム批判のようなモチーフを読み込むこともできるだろう(そういえば、アコンチの作品はある種のマッチョさと言うべきものがある)。それとアンチクライマックス性も特徴かもしれない。映像作家ならなにかしらのサスペンス性の演出やオチをつけたいと思うのだろうが、この作品は坦々としている。

 

《The way to move a hill》(2022)は、難解な作品だった。松江によると「前田の身体のサイズに合わせて作られたアームレストのような鉄製のツールとモニター、そして映像内で前田が行なっている動きの機序を記した指示板で構成されたインスタレーション作品である。映像には前田がツールを用いて行ったパフォーマンスが記録されている」。これを読んでもイメージがわかないかもしれないが、しかし、まさにこの通りの作品なのである。画面に写っているのは、接写されたツールのクッション面とそれに接触する身体。身体がバラバラになった感覚、というか、身体がそこにないこと自体が作品になっている、という印象を持った。身体の「影」を再構成した作品と言えばいいのか。この作品の正確なディスクリプションはわたしの能力ではできないので諦める。

 

 この展示でわたしが一番心を動かされたのが、3階にある前田の《遠い体》(2019)という9分程度の映像作品だった。

 

 白いスクリーン。左側に粘土が積まれている。そこにプロジェクターで作家自身の身体の映像が投影される。ハサミが入れられた隙間から両手両足のみ突き出される。視覚のない状態で、足の輪郭を粘土で埋めていく。身体は切断され、同時に出現する。投影される映像の身体自体も二重化されていて、複数の手とともに彫刻が作られていく。最後、映像は立ち去り、足の彫刻だけが取り残される。

 

 投影された身体の映像にハサミが入れらる瞬間は痛ましくも切実さがあり、鑑賞者の「わたしの身体」のあり方が揺さぶられるようだった。

 

「身体はそこに〈ある〉ものとは常に別のものである」とメルロ=ポンティは言ったが、身体はつねに「わたし」にとって違和を孕んでいる。純粋に見るわたしは存在しない。見るわたしと見られるわたしのあいだでつねに齟齬は生まれ、消えることはない。そのことは普段忘れられているが、本作はその事実を突きつける。

 

 立ち去った身体は一体どこに行ったのだろうか。あれが「わたし」の身体なのだろうか。それとも、残った不自由な硬い足こそが「わたし」の身体なのだろうか。いずれも「遠い体」であることは変わらない。

 

 この作品を見た後に2階に戻ると、二つの作品への展開がよく理解できるような気がした。どちらも身体の新たな活用法、潜在性を探求していると言えるのではないだろうか。体が「遠い」のであれば、それを使って分解して組み替えることができるはずだ。手を使えば顔のない身体をつくることができるし、ツールとカメラを使えば肌だけの、表層だけの身体をつくることもできる。

 

 前田の作品ではつねに身体がなんらかの「欠如」や「不自由さ」を抱えているように見える(なにかが「ない」)。だが、その「欠如」や「不自由さ」は否定的なものではない。いわばその身体の「影」は、あらたなる身体を作り出すためのメディウムでもある(たぶん)。

 

 そう考えると《The way to move a hill》も楽しい作品であるような気がしてくる。書き忘れたが、《壁で踊る》のシリーズもよかった。松江の「前田が身体を思考するとき、そこには自身から遠ざけていこうとする軽さと、自身に引き寄せていく重さが同時に存在しているのだ」という言葉は、作品を見る実感としてもしっくりきた。

 

 影を描くという行為は保存の行為であると同時にあらたな存在を作成する行為でもある。恋人が消えてもその影を象った絵は残る。残ったモノからその時の感情を思い出すこともできれば、新しい感情や感覚を作り出すこともできるはずだ。面白い展示だった。

 

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