「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」

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先日、国立西洋美術館で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見てきた。副題に「国立西洋美術館65年目の自問 現代美術家たちへの問いかけ」とあるように、1959年の西洋美術館開館以来初となる現代美術展である。

気づけば2012年のユベール・ロベール展(廃墟!)以来の来館となった。乱暴に要約してしまうと、さまざまな現代作家による収蔵作品からの影響・反響としての作品や、西洋美術館という場所への批評性を内在した作品を、近代日本の美術制度への批判を試みた活動を含む作品が展示されている。

第一印象としてなんと言っても、文字量の多さである。およそ21組の作家が参加しているので、すべてを注視することは時間的な余裕がなければ難しい。おそらく普通の鑑賞者にとってはかなり難しいだろう。

ちょうど読んでいたクレア・ビショップ「情報オーバーロード Information Overload」(青木識至+原田遠訳、『Jodo Journal 5 2024 SPRING』)は、リサーチ・ベースド・アートの形成を論じた論考であるので参照する。

「過去二〇年間に出現した、そういったリテラシーや鑑賞の新しい形式のための二つの主要な見出しは、スキミングとサンプリングである」(67頁)。スキミングとは素早く要点を読むこと(カード詐欺用語でもある)。サンプリングは、音楽のサンプリングではなく、科学において「データセットが分析するには大きすぎる時に」「サブセットが分析のために選ばれ、結果が推論され、そうしてより大きな単位に対して一般化される」こと。作品の一部から全体の「意味」を類推することを指す。

どちらも情報テクノロジーの発達の中でーー特にオンライン上のテクストを読むときにーー私たちが日常的に行なっている行為である。ビショップによれば、リサーチ・ベースド・アートにおいて「スキミング」と「サンプリング」という鑑賞の形式を強いられるという*1

よって、今回の西洋美術館の展示においても「スキミング」と「サンプリング」を強いられるわけだが、ビショップのいう「ポスト・デジタルな疲労」を感じることは避けらなれなかった。

脱線するが思えば、「炎上」という現象も「スキミング」と「サンプリング」という鑑賞形式によって生じる。アテンション・エコノミーが前景化した世界では日夜、さまざまな現象が「炎上」「問題化」するため、さっとブラウザし、断片から全体像を類推するしかない。ゆえに、「何かが問題になっているらしい」という程度しか知らない(あるいは全く知らない)ことはあまりに多い。

とはいえ、展示を見ている中で感じたのは「ポスト・デジタルな疲労」だけではない。近代における美術制作やコレクションの意味を問う作品に心惹かれ、その意味するところに目眩するような感覚に陥ったのは確かだ。

たとえば飯山由貴「この島の歴史と物語と私・私たち自身ーー松方幸次郎コレクション」「わたしのこころもからだもだれもなにも支配することはできない」(どちらも2024)。

前者「この島の〜」は飯山作品は西洋美術館の元になった松方コレクションを題材とし、フランク・ブラングィンの松方肖像画(1918)やウジェーヌ・ルイ・ジロー《パリ市庁舎における裕仁殿下のレセプション》(1921)といった作品を展示し、その間を埋めるように、飯山が「リサーチ」した西洋美術館の歴史、並びに日本近代史、日本近代美術史におけるジェンダー差別やレイシズムを批判する文章や引用(エメ・セゼールなど)からなる。これらはすべて手書きである。

リサーチに基づく文書の隙間に時折、次のような一節が差し込まれる。

「自らを語るためのイメージがある、そして、ことばがあるということは、力そのものだ。だからこそ、作り出すことは構造的な暴力に加担することがあるし、対抗しようとする集団や個人の力になる。」

また床部分にも文章が書かれている。

「この島のマジョリティの人々の言葉と手による、日本帝国が行った植民地支配とアジア太平洋戦争敗戦についての規範的な語りはない。この記憶喪失状態が、植民地化と侵略の被害と課外に関係する人々の精神と身体を癒すことは決してないだろう」

進行方向から見て奥には後者「わたしの〜」が展示されている。飯山のテクストの上にポストイットで参加者がそれぞれメッセージを書き貼るような作品になっている*2

すべてのテクストを読むことは、おそらくできない(上部のテクストは私には判別不可能だった)。しかし、部分的に引用された部分からもわかるように、メッセージははっきりとしている。可読性を超えて、メッセージが現前している。

その主旨には賛同するとしても、いささか素朴だと思ったのは事実だ。贅沢を言えば、西美のコレクションの絵画と自身のテクストをそのままぶつけるのではなく、より構造化された作品において、近代性を問うことができればよかったのではないかとも思ったが、手書き文字に異物感があり妙な印象が残った。

この作品の異物感は、見ている最中よりも見た後により迫ってくるように感じた。特に常設展のコレクションの異様さーーコレクションのしょぼさと偏り(キッチュとも違う。アンバランスな、つぎはぎのような、泰西名画的な不思議なコレクションだ)ーーを目の当たりにした時に、目眩のような感覚が回帰してきた。

コレクションの異様さは何に由来するのか。カタログの中で松浦寿夫は日本の美術館におけるコレクションについて語っている。

「1985年から3年ほどパリに滞在していたさい、美術館の常設部分のスケールにはやはり圧倒されました。日本の美術館で感じる「記憶の重圧」とはレベルが違う。うんざりするほど多数の作品があり、美術家にとってこの状況が身近にあるのはいつでも見学できるという意味で理想的ではありますが、逆に嫌かもしれないとも思いました。」

「日本の場合、まず常設部門が貧困です。」

「そこまでコレクションをもたない日本で代替的な存在といえば、やはり書籍です。」

ユベール・ロベールではないが、日本では「廃墟」にすらなっていないのである。廃墟以前に「建築」ができていないのだから。制度構築の不十分な状態での制度批判とはどのような意味を持つのか。

しかしすでにどこの国でも美術館という「殿堂」はすでに安定したものとはあり得なくなっている。資本主義の世界において聖域はない。

「いっぽうでニューヨーク近代美術館の場合、基本的には収蔵品を売却しないという従来の美術館運営のありかたとは異なって、設立当初から収蔵品を一部売却することで新しい作品を購入していました。半永久的に収蔵されることで価値が蓄積され、そのうえに成り立っていた美術館の構造が変わり、こういってよければ、安心して作品が眠れる場所ではなくなった。マーケットに対して自立した立場をとってきた美術館もいまやマーケットの論理に呑み込まれそうになっている。現在に近づくほど市場価値と芸術的な価値との関係も非常に不明瞭になってきています。そして同時代の作品ばかりでなく、過去の作品も危機に瀕しています。」(松浦寿夫)

古典であれ、現代の作品であれ、作品が安心して「眠る」場所はもう存在しない。出展作家の中には、美術生産過程のヒエラルキーを批判するものもいたが、所詮正史に連なろうとする欲望でしかなく、正史自体が安定した基盤を持ち得ない時代において、それが叶えられることはないだろう。

「リサーチ・ベースのインスタレーションにおける最も豊かな可能性は、既存の情報が単に切り貼りされ、集積され、展示ケースに投下されるのではなく、それらが自らの方法によって世界を感受する独特な思考者のもとで新陳代謝されるときに現れる。」(クレア・ビショップ「情報オーバーロード」72頁)

飯山作品において、「既存の情報の切り貼り」という側面は否めないだろう。だが、それは西洋美術館という空間において、「世界を感受する独特な思考者」のもとで今まさに「新陳代謝」されようとする瞬間の手前にある作品なのだとしたら、どうだろうか。そしてそれが抗議活動に繋がっているとしたら? もちろん抗議活動は作品ではないだろうが、新たな作品の種子となりうる。

飯山作品の居心地の悪さは眠る場所のありえない世界におけるそれであって、美術館を超えて、呼びかけている。その呼びかけは「眠る」場所がもう存在しないということを呼びかけているのか、それとも「眠る」必要がないということは呼びかけているのか、それとも別のありかたを求めているのか。それはまだ私にはわからない。

 

*1:「二〇〇二年のドクメンタ11が、六〇〇時間以上のビデオを含んでいたのは有名で、それを全て見ることができるのは、鑑賞者が一〇〇日間の展示の全期間を通して滞在した場合のみである」(66頁)という。

*2:ポストイットの部分はあいちトリエンナーレ2019の時のモニカ・メイヤーの作品のような感じ

ローラ・ポイトラス『美と殺戮のすべて』

『美と殺戮のすべて』 

サービスデーだったので有楽町でローラ・ポイトラス『美と殺戮のすべて』(2022)を見てきた。

ナン・ゴールディンには、荒木経惟的な「私写真」のひとという雑なイメージしか持っておらず、ほとんど興味がなかったのだが(どちらかというと同時代の写真家ではティルマンスに関心があった)*1オピオイド危機の最中、抗議活動を展開したということを知り、アート・アクティヴィズムへの関心から映画を見た。

※下記ネタバレあり。注意※

冒頭に描かれるのは2018年のNYのメトロポリタン美術館での「ダイ・イン」。ゴールディンらが結成した支援団体P.A.I.N.(Prescription Addiction Intervention Now)の活動仲間と一緒に、「オキシコンチン」という鎮痛剤のラベルが貼られた薬品容器を、美術館内に撒き散し、「サックラー一族は人殺し」という掛け声が始まる。

オキシコンチン」とはオピオイド鎮痛剤の一種。依存性が高く、合法的な麻薬とも言われ、全米で過去20年間で50万人を殺害した。ゴールディン自身も14年に手術をした後に投与され依存症に陥った。サックラー一族とは、オキシコンチンを製造する製薬会社パーデュー・ファーマーの創業家であり、同時に、美術館や大学への大口寄付者である。ゴールディンらは美術界を支える巨大資本家に立ち向かう。

映画を見る前から「オピオイド危機」のことはなんとなく知っていた。ネットフリックスでドキュメンタリーがあるらしく、それを見た友人からいかに製薬会社が横暴で、被害が凄惨かを聞いていた。実際に支援団体(互助団体)に参加する家族がオピオイド依存症になった子供の死を語る様子を映像で見ると、なぜこのような不正義がまかり通っていたか、と憤慨する。

映画は4年に及ぶ抗議活動の様子を映しながら、同時にゴールディン自身の人生を振り返るという構成をとっている。ゴールディンが、「物語は都合の悪い事実を覆い隠す」と言うように、それはあくまで現時点の彼女らによる回想ではある。だが、「生き延びることはアートだった」と語るように、彼女の人生と作品を辿ることは、ドラァグクイーン・コミュニティの(ジョン・ウォーターズが出てきた!)、レズビアン分離主義者たちの、ドメスティック・バイオレンスの被害者たちの、そしてエイズ患者たちの歴史を辿ることでもある。ナン・ゴールディン自身の「私写真」は、私的であると同時に、ポリティカルなものであることに、私は気づいていなかった。

「私の作品はすべて、自殺、精神病(※「精神疾患」だと思う)、ジェンダーなどスティグマをテーマにしています。私の最初期の作品は、70年代初頭にボストンやドラァグクイーンを撮影したものでしたが、80年代まで、自分の作品が政治的なものだとは認識していませんでした。私が5年間バーテンダーをしていたバーを経営していたマギー・スミス、彼女こそが仕事とは政治的であることだと気づかさせてくれました」(パンフレットより)

仕事とは政治的であること。マギー・スミスとは、セックスワーカーの自立支援としてバーを経営していた人物。ゴールディン自身も一時期、売春をしていたと語っていたことに驚いた。初めて明かしたという*2

ともかくゴールディンが語る歴史の細部が面白いのだが(エイズ危機の最中のアーティストらによる抗議活動「アクトアップ」についてもっと知りたくなった。オピオイドへの抗議活動も「ダイ・イン」など同活動を参照している)、これは実際に見てもらうしかない。

映画の背骨となるのが、ゴールディンと仲の良かった姉の死である。姉はたびたび父母と喧嘩し、精神疾患を患い、児童養護施設や病院をたらい回しにされた挙句、自殺する。姉が書き残したメモにはコンラッド『闇の奥』の一節が記されていた。

「人生とはおかしなものであり、無慈悲な必然性に基づいている。自分ことを深く知り得たとしても、大抵は手遅れで、悔やみきれない後悔が残るだけだ」

"Droll thing life is—that mysterious arrangement of merciless logic for a futile purpose. The most you can hope from it is some knowledge of yourself—that comes too late—a crop of unextinguishable regrets."

手元にある光文社古典新訳文庫の黒原敏行訳だとこうなる。

「人生とはおかしなものだーー虚しい目的のために、情け容赦ない筋道が、どういう具合にか用意される。人生に期待できるのは、せいぜい自分について何事かを悟れると言うことだけだが、それは常に遅ればせな悟りであって、つまりは悔みきれない後悔を得ることでしかない。」(173頁)

このマーロウの言葉は、クルツの死の直後に置かれている。

映画ではゴールディンが撮った映像がインサートされる。その中で(無慈悲にも!)母が読み上げるのだが、"that comes too late"の手前で声が詰まってしまう。この映画を見ると、ゴールディンは自身の「情け容赦ない筋道」を引き受けることが同時に、オピオイド危機という巨悪に立ち向かうエネルギーとなっていることが窺えた。

肝心の抗議活動についてだが、当初、美術館は冷ややかだったが、ナン・ゴールディンの2018年のアートフォーラム誌でのエッセイや、P.A.I.N.の活動によってテートやルーブルなどが将棋倒しに、サックラー家の寄付を断り、美術館から名前もおろすことに成功する。*3

細かいところで気になったこと。ゴールディンが「政府も司法省も何もしてくれなかったが、倒産裁判所だけが手を差し伸ばしてくれた」と語っていたが、なぜそう言うことになるのか、専門家の解説を聞きたいと思った。

ともあれ、ナン・ゴールディンというアーティストへの関心が高まり、またアートとアクティヴィズムについてなど思考が刺激される、なかなか面白い映画だった(本当は「アーティストである前に一人の人間として」というパンフレットにある一節への違和感、「市民とは誰か」ということについて書きたかったのだが)。

*1:浅田彰が何かのシンポジウムで、ナン・ゴールディンと荒木経惟の差異について語っていて感心した記憶があるが、どの本だったか。ナディッフで立ち読みした小さい赤い本に入っていた気がするが思い出せない。

*2:先日参加した『アートワーカーズ』の刊行記念シンポジウムで、ジュリア・ブライアン=ウィルソン氏が、アーティストとして生計を立てている人はほんの一握りであり、セックスワークに従事するアーティストもいること、スティグマを解体することが必要であること、売春が女性化されていることについて話し問題提起をしていたことを思い出した。まさに仕事はポリティカルであること、である。

*3:この様子は痛快でもあるが、同時に国立西洋美術館での抗議活動のことも想起せざるを得なかった。オピオイド危機の場合は、巨大資本とはいえ標的が定かなものだった(「悪魔化」という言葉さえ過ぎったが、運動という点では仕方ないし、実際やっていることを考えれば当然である)。川崎重工イスラエルへの武器提供をやめたとして(それは必要なことである)、おそらく代わりに別の国の別の企業が武器を提供することになる。戦争を続けるイスラエルへの抗議にしても(それは必要なことである)、「停戦」したとして、植民地構造に手がつかなければ、同じ悲劇は繰り返されるだろう。一昨年のドクメンタ15を引き合いに出すまでもなく(今もジュディス・バトラーやナンシー・フレイザーが、イスラエルを批判したかどで社会的な非難を浴びている)、一方的な「圧力」は止まない。オピオイド危機は一企業の問題だったが、今回はイスラエルとそれを支える国際社会、ひいては資本主義に内在する暴力という、アートワールドも密接に関わる、より大きなシステムを背景に持つ。システムに対抗する運動は可能なのだろうか。

ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」

ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」(斉藤綾子訳、1975、『新映画理論集成1歴史/人種/ジェンダー』所収)を読んだ。*1

エリザベス・ライトが批判していたので、ちゃんと読んでみようと思って手に取ったのだが、近年の表象批判の起源の一つでもあり、面白く読んだ。

jisuinigate.hatenablog.com

訳者である斉藤綾子の解説から引用する。

「本論文の重要性は、まず第一に、それまで社会・政治運動として考えられていたフェミニズムに、ある一種の批評言語を与え美学的な接点を作り出した点による。第二にに、マルヴィがハリウッド古典映画で示した図式によって、それまで現象として捉えられていた「女性の身体」の見せ物化に、過程(プロセス)として分析した方法論を与えたということである。」

「「視覚的快楽」は映画研究者あるいはシネフィル的視点からフェミニズムを捉えた論文である」

斉藤によれば、フェミニスト映画理論の歴史において「視覚的快楽」が画期的だったのは、精神分析モデル、セクシュアリティの理論の導入により、主流映画において「見る人=男、見られる人=女」という図式が、「父系社会のイデオロギーによる映画の言語規則(コード)」として映画スタイルと物語構造に無意識的に組み込まれていることを明らかにした点にある。「良くも悪くもフェミニスト映画理論の基本となったが同時に大きな反発も現われた」と振り返っている。

マルヴィは見るという行為の無意識に潜む性差別を抉り出す。「見る人=男、見られる人=女」という図式は、映画に限らず、現代の表象分析においても応用され、例えば広告においてしばしばこの図式が反復され、「性的対象化」あるいは(マルヴィは使っていない用語だが)「モノ化」という批判がなされている。マルヴィの論文自体はそれほど読まれることなく、「規範的(ノーマル)な快楽の期待を壊す」ツールとして無意識裡に応用され、いわば大衆化していると言ってもいいだろう。下記の一節など、どこかで読んだことがあると感じる人は多いだろう(無論、今も問題的であるということだが)。

「性的な不均衡に規制された世界においては、見るという行為の快楽は能動的=男性、受動的=女性に分割されている。決定的要因をもつ男性の視線(ゲイズ)はその幻想を女性の姿に投影するが、うまくできたもので女性の姿はその視線に見合うようなスタイルをとる。伝統的に顕示的な役割をもつ女性は見られると同時に呈示(ディスプレイ)される。このために女性の外観は、「見られるため」ということを暗示するように、視覚的で性愛的な強度の衝撃をもつような形に規則(コード)化されている。性的対象として呈示された女性は性愛的見世物(エロティック・スペクタクル)のライトモチーフ的存在だ。ピンナップ写真からストリップ・ショー、ジーグフェルド・レビューからバスビー・バークレーに至るまで、女性は(観客の)視線を捉え、男性の欲望を意味し、それに向けて演じる。」

実際に読んでみると「視覚的快楽」の試論的な性格がわかる。章構成は下記の通りだ。

Ⅰ 序文

 (a)精神分析を政治的に使うこと

 (b)快楽の破壊をラディカルな武器とすること

Ⅱ 見るということの快楽/人間の姿(フォーム)に対する魅惑

 A(※節タイトルなし:映画の喜びとしての視覚快楽嗜好)

 B(※節タイトルなし:映画の魅惑としての、映像に対する自己同一化)

 C(※節タイトルなし:AとBという矛盾する側面のフロイト的な総合)

Ⅲ映像(イメージ)としての女性、視線の担い手としての男性

 A(※節タイトルなし:見るという行為における男女の分割)

 B(※節タイトルなし:異性愛における能動/受動という労働分割と物語構造)

 C1(※節タイトルなし:ⅢAとBの総合。どちらも視線に関係している)

 C2(※節タイトルなし:スタンバーグ(呪物崇拝)とヒッチコック(窃視狂的側面)における視線の体制)

Ⅳ 要約 

以上のように、やや不思議な構成をとっている。試論的なメモを並べて、構成し、その論理的な穴を補うかのように、最後に「要約」までつけている。

 

エリザベス・ライトはマルヴィにおける「視線」(サルトル)と「まなざし」(ラカン)の混同、「鏡」と「スクリーン」の取り違えを批判していて、それは正しいと思ったが、試論的な性格と下記のラカン受容事情を考えるといささか無茶な要求だろう。

ラカンの論文は明示されていないが、鏡像段階論を持ち出しているほか、フロイトの「本能とその運命」を参照している。マルヴィは『四基本概念』のセミネールは参照していないので(英訳刊行年がいつかは知らない)、ラカンの「まなざし」論を意識しているわけではない。

気になったのが、やはり去勢コンプレックスとファルスである(またしても!)。これはマルヴィの「見る人=男、見られる人=女」という図式の根幹に関わっている。

「女性の欠如(すなわち女性にはペニスが欠如していること)こそが象徴的な存在としての男根(ファルス)を産み出し、そして女性の欲望こそが、男根が記号表現するものとしての欠如を補うものに他ならない」(Ⅰ-A)

「女性は去勢との関係においてのみ存在し、決してそれを超越することができないという点で、女性の欲望は(去勢の)出血する傷の担い手として映像(イメージ)に従属している。」(Ⅰ-A)

「女性の形象(フィギュア)はもっと根深い問題を提起する。すなわり女性は、この男性の視線が常に舞い戻りながらも否認する何かを暗示的に含むものであるからだ。それは彼女の男根(ペニス)の欠如が去勢脅威を呼びおこし、不快を生んでしまうということである。つまるところ、女性の意味は性差であり、視覚的に訴える男根の不在である。」(Ⅲ- C1)

「男性の無意識はこの去勢不安から逃れるために二つの道をとる。一つは女性をおとしめ、有罪者として罰するなり救うなりすることで埋め合わせを図りながらも、最初の外傷の再演に専念すること(略)さもなければ、去勢そのものを完全に否認してしまうことだ。これは呪物崇拝(フェティッシュ)の代用によるか、または表象された形象(フィギュア)そのものを呪物化してしまうかによって成し遂げられるが、こうして女性の形象が脅威的なものから安心感を与えるようなものに変わる(略)。」(Ⅲ- C1)

「表象における女性は去勢を記号表現し、結果としてこの脅威を巧みにかわすため、窃視狂的、もしくは呪物崇拝的機構を活性化する。」(Ⅳ)

「去勢を思い起こす脅威となる女性の映像(イメージ)は、常に物語世界の統一性を危険に晒し、でしゃばりで動かない一次元的なフェティッシュとして錯覚的幻想(イリュージョン)世界を突き破っていく。」(Ⅳ)

マルヴィの「視覚的快楽」においては、映画の中の女性の形象はファルスの欠如を表現し、見るのもの(男性観客を想定)の去勢不安を引き起こす。去勢不安への対策として、「外傷の再演」もしくは、否認としてのフェティシズムへと至る。見られるものとしての女性と、見るものとしての男性という図式の根底には、性差を生み出す去勢コンプレックスが存在している。

そもそも去勢コンプレックスとはなんだろうか。ラプランシュ/ポンタリスの『精神分析用語辞典』を参照しよう。

「去勢の幻想を中心とするコンプレックス。これは子供が性の解剖学的相違(ペニスの存在と不在)についてもつ疑問への答えとして生じる。この相違は子供の考えでは、女性ではペニスが切り取られたものだとされる。

去勢コンプレックスの構造と効果は男児と女児では異なる。男児では去勢を、彼の性的活動にたいする父親の脅迫が実現するものとして恐れる。そこから去勢への強い不安が生じる。女児では男根のないことを不公平だと思い、これを否定し、代償し、または修復しようとする。

去勢コンプレックスはエディプス・コンプレックス、ことにその禁止的、規範的機能と深い関係がある。」(「去勢コンプレックス」の項)

いきなり余談に逸れるが、精神分析の理論を学ぶ上で障害となるのが、エディプス・コンプレックスをはじめとする上のような「お話」(「仮説」とも「神話」とも言える)を受け入れるかどうか、という点である。私もフロイトに出会った時には、「ほんまかいな」とまともに読む気がしなかったが、ラカンのようにフロイトを「出来事」として受け止め(ニコラ・フルリー『現実界に向かって』)、テクストの解釈を通じて、臨床的な理論を構築する議論を読み、とりあえず受け入れてみることにした。一定の留保というか我慢をして読むことになるわけだが、実際フロイトのテクストを読むと、ラカンよりも文章としての魅力があり仮定に仮定を重ねる思考の力強さに驚き、ハロルド・ブルームが「ウエスタン・キャノン」の一つとして選んだだけのものだという印象だった。

去勢コンプレックスに戻ろう。フロイトが去勢コンプレックスを発見したのは、症例ハンス少年を通じてだった。公刊されたのが1908年の「幼児期の性理論」。

去勢幻想はさまざまな象徴の形で出現する。

「脅迫された対象は移動し(エディプス王にみられるように盲目になること、抜歯など)、その行為は歪曲され、肉体への他の損傷に移され(事故、梅毒、外科手術など)、時には精神的損傷ともなる(手淫の結果としての狂気)。父親の代理者はさまざまな形で現れる(恐怖症者の恐怖の対象となる動物など)。去勢コンプレックスは広範囲に臨床的症状の中にも認められる。」

ここだけ読むと意味不明かもしれないが、フロイトの五大症例を読むと、理論的後付を理解することができる(例えば「恐怖症者の恐怖の対象となる動物」はハンス少年にとっての馬である)。

エディプス・コンプレックスとの関係においては、去勢コンプレックスは男児と女児では異なった位置を占めている。

「女児の場合は、それは父の男根にたいする欲望に導き、かくしてエディプスへの出発点となる。男児では、それはエディプスの集結期の危機であり、子供に母性的対象を禁止するためにあらわれる。去勢不安は男児にとっては潜伏期の幕開けとなり、超自我の形成をうながす。」

男根ことファルスの項目も見よう。

「去勢コンプレックスの理論がまた、男性性器に決定的な役割を与えている。それは象徴としてのことであって(略)各主体にとって、このあるかないかということは自明のことではなく、一つの単純な与件に帰せられるものでもなく、主体内および主体間の家庭の、問題をはらんだ帰結(主体が自分自身の性を自分のものとして引き受けること)であるという意味で象徴なのである。」

主体が自分自身の性を自分のものとして引き受けること。ファルスへの関係の仕方、位置によって、性が決定される(ただし、フロイトラカンの理論基本的に「事後性」の論理なので、臨床的現実を説明するためにある。ある星座のかたちは与えられている星の位置によって決まり、選ぶことができるわけではない)。

果たしてマルヴィーが言うように映画の中の女性のイメージが男性観客に対し去勢不安を引き起こすかはよくわからないのだが(マルヴィーが参照した50年代ラカンにおいては去勢コンプレックスは母的存在との関係で生じ、「疎外と分離」を経て解決されるはず。想像的ファルスから象徴的ファルスへの置換。映画体験は鏡像段階的なナルシシズムの体験と言えるかどうか。むしろ夢=無意識に似ているだろう*2 )、70年代のアメリカにおいて、ラカンの理論の十分な紹介がなされていないにもかかわらず、「性差」を説明する理論として大きく期待されていたことがわかる。次は(いつできるか不明だが)ラカンが「ファルスの意味作用」での議論を辿りたい。あるいはフロイトの五大症例からラカンの思索を考えるのも面白いかもしれない。

*1:いまいちちゃんと感想を書けている感じがしないが、暫定的読書メモなので公開する。

*2:とはいえ、当たり前だが、マルヴィーの理論が無駄というわけではない。斉藤はマルヴィーの理論とシャンタル・アケルマンやデュラスらの映画との同時代性を指摘する。『新映画理論集成』に収められたテレサ・ド・ローテレティスの註にアケルマンのインタビューが引用されている。「(※『ジャンヌ・ディエルマン』について)ショット一つ一つに確信を持っていました。カメラをどこに置き、また、いつ、そしてなぜかということに関しても完全に理解していました。(略)普通の商業映画のようにカメラは覗き趣味ではありません。というのは、観客は作り手としての私がどこにいるかをはっきり判っているからです。(略)女性をショットでバラバラにしてしまうことやアクションを細切れにしてしまうことを避けるために、また注意深く見守り、敬意を示すためには、私の選んだ撮影の仕方以外の方法はなかったと思います。」おそらくマルヴィーとアケルマンは同じ敵を直感していたのではないか。「視覚的快楽」はその同じ敵を批判するための試論である。

ゲイル・ルービン「女たちによる交通」

「実際、彼は書かなかったか? 権力と女たちの所有、余暇と女たちの楽しみを? 彼は書いている。お前は通貨だと。交換の項目だと。彼は書いている。物々交換、物々交換、女たちと商品の所有と獲得。誰でも手に入れることができる生を生きるより、お前はお魔の根性を陽のもとで見、死に際の喉鳴りを呻いた方が良い。この地上でお前に属しているもの、それは何か? ただ死だけである。地上のいかなる権力もお前から死を取り去ることはできない。そしてーーお前自身を考え、説明し、言ってみよーーもし幸福が何かを所有することになるとすれば、この主観的な幸福ーー死ぬことを握って離すな」(モニカ・ウィティグ「(女)ゲリラたち」1973)*1

ゲイル・ルービン「女たちによる交通 性の「政治経済学」についてのノート」(長原豊訳、現代思想2000年2月号)を読んだ。

本論文は「合衆国におけるラディカル・フェミニズムの理論的深化を代表する」論文の一つとされ(岡野八代『ケアの倫理』)、1975年に公刊された。

ルービンは文化人類学者で、マルクスエンゲルスレヴィ=ストロースフロイトラカンの批判的「解説」を通して、親族システムやエディプス概念が性の分割を必要としていることや強制的異性愛、性差別を内在していることを暴き、性/ジェンダー体制の政治経済学を試みた。

岡野による要約を参照しよう。

「ルービンは、「女たちによる交通」によって社会を構造化する原理としての性/ジェンダー・システムを見いだし、現代的な性別分業は近親婚タブーのように、異性愛的な婚姻以外の性的配置を許さないための規範として機能していると考えた。労働の性別分業は、男らしさ・女らしさといったジェンダーを創出するだけでなく、異性愛も創出している。同性愛が社会的に抑圧されるのは、女性たちを従属的な分業体制のなかに縛りつけ、彼女たちを抑圧する同じシステムによる作用の一つに他ならない。」(『ケアの倫理』)

ルービンはレヴィ=ストロース「女の交換」を軸にした親族理論を批判する。レヴィ=ストロースは未開社会における互酬性の理論に、婚姻が贈与交換の最も基礎的な形態であるという考え方を付け加えた。鍵となるのが近親婚の禁忌である。それによって、家族間そして集団間による「女の交換」が可能になる。集団内部における結合を禁止することによって集団間の婚姻的交換を強制する。

「女たちが取引されている当のものであるとすれば、結び付けられているのものは彼女たちをやり取りしている当の男たちであり、女たちは男たちのパートナーというよりはむしろそうした関係の道管である。」

「「女たちの交換」は魅力的で力強い概念である。それは、生物学と言うよりはむしろ社会システムに女たちの抑圧を位置づけるという意味で魅力的である。またさらにそれは私たちが商品による交通というよりはむしろ女たちによる交通の内部に女たちの抑圧の究極的な場を探し出すことを示唆している。」

「「女たちの交換」はまた問題含みの概念でもある。レヴィ=ストロースは近親婚の禁忌と応用の帰結が文化の起源を構成すると論じているからこそ、女たちの世界史的な敗北が文化の起源とともに起き、文化の必要条件であることを導き出すことができる。彼の分析がその純粋な形態において選びとられるとすれば、フェミニストの綱領は男たちの根絶に較べてより厄介とさえなる課題を含んでいなければならないことになる。それは文化を取り除き、それに代えて大地の表面における全く新たな現象をもってくる試みでなければならないことになる。」

ルービンはレヴィ=ストロースの親族理論の帰結として、「近親婚の禁忌、強制された異性愛、そして性の非対称性」を導き出す。

続いて、ルービンは精神分析を「親族関係の再生産についての理論」とし、「諸社会のセクシュアリティ規則や諸統制と諸個人が対峙することによって諸個人内部に残留した残余」を描き出す。

フロイトは生物学決定主義ではない。フロイトセクシュアリティを生物学的発達ではなく、心的な発達に原因を持つとし、その中核にエディプス・コンプレクスを置いた。そして、ラカンレヴィ=ストロースの人類学の影響をうけ、フロイトを読み直し、エディプス・コンプレクスをより洗練された理論に発展させた*2

ラカンは去勢コンプレクスの理論において、「ファルス」という概念を導入した。実体的なペニスではなく、「それぞれの主体にとっての現前あるいは不在」を扱う記号としてのファルス。去勢とはファルスを持っていないことである。ルービンは、「去勢は本当の意味での「欠如」ではなく、女性器に授けられた意味」であるとし、ファルスは「去勢されていること」と「去勢されていないこと」とを差異化する示唆的な特徴であるとする。つまり、男と女という二つの性的地位の差異を指し示すのである。(余談だが、ここは今振り返ると、若干怪しい。男性主体もまた去勢されているからである。ラカンにおいては、男女はファルスを持つもの、ファルスであるものに分けられ、のちに「性別化の式」で形式化される。とはいえ、ファルスへの関係の仕方によって、性的地位の差異が示されていることは変わらない。)

「ある意味で、エディプス・コンプレクスは、家族内の交換におけるファルスの流通(循環)に与えられた表現であり、家族間の交換における女たちの流通(循環)の反転である。エディプス・コンプレクスによって明らかにされる交通循環では、ファルスはある男から他の男への、すなわち父から息子への、母の兄妹から姉妹の息子への、などの媒体を介して流通する。この家族クラの環では、女たちは一方向へ、ファルスが他方向へ動いている。私たちが私たちでないのはこうした場である。この意味で、ファルスは男女を区別する特徴以上の意味をもっている。それは男性の地位の具体化であり、男たちはそれに加わり、そこにある種の権利ーーとくに女への権利が付与されるのである。それは女たちを介して流通(循環)し、男たちに権利を与えるのである。それが残す痕跡は、ジェンダーアイデンティティ、性の分離を内包している。」

興味深いのが、女性におけるエディプス危機についての分析で、フロイトやランプル・デ=ホローとの定式、そしてそれに対するカレン・ホーニーの批判を参照し、少女の母への愛についての分析、女性性についての精神分析理論を展開するところであるが、割愛する。

「女性性についてのフロイトの理論は、その公表以来、フェミニストからの批判に曝されてきた。それが女性の従属を合理化するかぎり、この批判は正当である。しかしそれが女たちの従属過程についての叙述であるかぎり、批判は誤っている。ファリックな文化が女たちをどのように馴致するのかについての記述、女たちの馴致が及ぼす彼女たちへの諸効果についての記述として、精神分析理論は比類なき理論である。」

ルービンは精神分析を捨て去ってしまうのは「ジェンダー的な位階(あるいはジェンダーそれ自体)を根絶するための政治運動にとっては自殺的」とまで言う。人間社会におけるセクシュアリティの理論は、おそらく今のところ、精神分析しか存在しないからだ(「精神分析は失敗したフェミニスト理論である」)。

ルービンにとって、レヴィ=ストロースの親族理論もフロイト精神分析理論も、そのセクシズムにもかかわらず、性/ジェンダー体制の分析理論として高く評価されている。それは性/ジェンダー体制の現実を分析し、記述する有効な論理だからである。いかにフェミニズムの議論が浸透しようとも(すべきである)、いまも「女の交換」はそこやここで生じている。そのグロテスクな論理を辿るために彼らの理論はいまも有効だと思う*3

現代において、親族関係は「以前それらが有していた機能的な重要性を失っている」。親族関係は国家のない社会において、政治であり、経済であり、教育であり、組織だった。しかし、現在では国家をはじめとする諸機能へと分散している、だが、「その最も赤裸な骨格」に切り詰められることで、「性とジェンダー」として姿を露わにしている。

ルービンは「フェミニストの運動は女たちの抑圧の根絶以上の何ものかさえ夢見なければならないと考えている」と言う。強制的なセクシュアリティと性的役割の根絶。女たちでなけれならない、あるいは男たちでなければならない、ということによって抑圧されない社会を夢見る。そのためには「親族関係」の革命が必要とされる。*4

「労働の性的分割が成人男女が同等に育児を行うような分割であれば、第一次的な選択はバイセクシャルとなるだろう。異性愛が強制的でな(け)れば、この初期的な愛は抑圧される必要がないだろうし、ペニスが過大評価されることもないだろう。性的な所有システムが、男たちが女たちへの権利を濫用することがないように再組織化しなければ(もし女たちの交換が存在しなければ)、またジェンダーが存在しなければ、エディプス・ドラマ全体は遺物となってしまうだろう。約めて言えば、フェミニズムは親族関係における革命を目指さなければならないのである。」

*1:「女たちによる交通」注12で引用されている

*2:ルービンが参照している論文は「The Function of Language in Psychoanalysis」1968とあるので、「ローマ講演」論文のことだろう。

*3:木庭顕の交換への視点にフェミニズムは存在しないと思うが、常にすでに生じている交換による害悪は認識されており(別方向からの人間の尊厳への洞察がある)、その理論的認識はフェミニズムにも貢献し得るものだと思われる。

*4:バトラーは『ジェンダー・トラブル』においてルービンを取り上げている。「たしかにルービンは、オルタナティヴな性の世界を心に描いており、それは、幼児の発達段階におけるユートピア的な期間ーー法の死あるいは分散の「あとに」ふたたび出現するはずの法の「まえ」の世界ーーである。しかしそういった「まえ」を想定し言及することの正当性を批判したフーコーデリダの主張をわたしたちが受け入れた後で、ジェンダー獲得のこの物語は、どのように修正していけばよいのか。」(142頁)「 《象徴界》に「外部」と言われ、攪乱地点としてはたらく両性愛は、実際のところ、言説によって「外部」として構築されているものにすぎない。」(145頁)。ルービンは法の「まえ」を夢想しているのではなく、親族関係の革命を夢見ている。クリステヴァのような議論とは異なる。バトラー理解が不十分なので、なんともわからないが、現時点での理解を記しておく。

木庭顕『ローマ法案内』その3 交換関係と自由について

木庭『ローマ法案内』で(私が理解できた範囲で)一番重要と思われたのが、交換関係と「自由」についての洞察だった。

木庭は人間の活動にとって、具体的な空間、特に土地、テリトリーが欠かせないことに注目する。テリトリーの上で経済活動も行われ、その「果実を巡って取った取られたの関係(※=交換関係)が発生」し、それは「人間の集団」へと発展する(「1−5 都市が無ければ政治は無く、したがって法もない」35〜40頁)

「テリトリーと交換関係(échange)の間の複雑な展開は社会人類学が高度な分析を蓄積し、贈与交換関係などのメカニズムが解明されてきた。およそ集団ないし組織を考えるときの基本であるが、しかしそうであるならば、空間の中でわれわれの活動の主要部分は必然的に支配従属関係を発達させるということにもなる。そて、あらゆる種類のテリトリーは流動的であり、また流動的故に衝突し、衝突に備えて人の集団がテリトリーの線引きを越えて形成される。つまり実力(暴力ないし軍事化)が発生する。」

木庭に言わせると、ここに「政治」に存在しない。何故なら、政治は個人の自由のため、つまり徒党(交換よる支配従属関係)を解体するために存在するからだ。

政治と生産活動(テリトリーに具体的に関わり果実を取る活動)との間には深刻な二律背反がある。一切のコミュニケーションを絶った自給自足の世界であれば、支配従属関係は発生しないが、ユートピア=反ユートピアとしてしかあり得ない(『オデュッセイア』では「独つ眼のキュークロペース」の逸話で表現されているらしい)。ホッブスはこのこと気づいており、「社会契約」や「自然状態」を構想したときの着想源であったという(キュークロペース同士の契約)。

契約とは言葉の交換である。次にどこでそれをするのか、という問題が発生する。

「誰かがテリトリーの上で費用=果実連関を遂行している真っ最中はだめである。彼の支配に属してしまう。一人一人自由独立であるという前提に反する。そうすると誰も支配していない、そして如何なる費用=果実連関にも立たない、空間を共同する必要がある。」

政治はそのような共同の空間で行われる。「政治を直接担う活動は言語だけが君臨する空間において出なければ実現しない」。そこで初めて人は「自由」になる。

面白いのが、古代ギリシャやローマにおいて、「共同の空間」をつくるために様々な工夫がなされたという一例として、「石畳」が挙げられていることだ。「誰も種を蒔けない」のでここでは「費用=果実関係は遮断されている」。「共同の空間」を体現するのが、古代ギリシャ・ローマ的な意味での「都市」だ。ギリシャ・ローマでは「神殿を公共空間創設の柱」とした。

「都市を持つということはこのように空間を厳密に二元的(※交換関係にもとづく空間と「共同の空間」)に捉えるということであるが、政治を備えたいというのであれば、これを思考の基本カテゴリーとして有しなければならない。今日でも西ヨーロッパにおいては(南では即物的に、北では多分にヴァーチャルに)この基本のカテゴリーは生きており、「都市」と「領域」、公共空間と私的空間、はほとんど哲学的な二元論を形作っている。」

木庭に言わせると、今日の都市は古典的な都市とは大きく逸脱しているが、それでも近代都市は古典的都市の上に発展してきたのだという。

 

木庭の別の本からも引用しよう(『笑うケースメソッド 現代日本公法の基礎を問う』)。

「フランス社会人類学でいうéchange(エシャンジュ)のことだと思いますが、私は一番追い詰められた個人の自由が保障されるので無ければ意味がないと思っていて、だから、追い詰めるほうのメカニズムとの関係で追い詰められる個人の自由を論じなければ意味がない。自由とは何かも、どうやって自由を守るのかも、そうやって論じなければ。」

「集団のメカニズムが働いて自分を追い詰める、そういうのが嫌でたまらないという考え方、これがギリシャ・ローマからくるからでしょ。悲劇を読めばわかりますよ。いや、ホメーロスやヘシオドスに濃厚に表現されています。」

「集団がもたらすメカニズムに苦しんだことがない、あるいはその苦しみに共感できない人に、自由の意味はわかりません。自由がすべてで社会の質を分ける決定的な分水嶺であるということ、すべての問題に及ぶということ、そしてその実現は解けそうにもない謎であるということ、どれだけ難しいかということ、このことを痛切に感じなければ、話になりません。」(第0章)

上の引用は学生の発言という形式をとっているが、実質木庭の考えを表明しているだろう。集団は個人を追い詰め、苦しめる。その苦しみをどう避ければいいのか。どうやって「個人の自由」を守ればいいのか。苦しみのもとである交換関係によってできた徒党を解体し無ければ、「個人の自由」は実現しない。政治とはその装置だ、というのが、木庭が古代ギリシャ・ローマから見い出した洞察である。

話を極めて卑近なものに寄せると、現代においても「政治家とヤクザ」は「冠婚葬祭」が大好物である(第1章)。交換関係によって集団を形成する糸口になるからである。故に「選挙法は儀礼に伴う贈与交換を徹底的に禁ずる」(実際、徹底的に禁止できているか不明だが)。政治や法(裁判)において儀礼空間が重要なのは、そのような「利益混入遮断」のための仕切りとして機能するためだ(議会や裁判所が必要な理由)。政治はこうした個人の自由を破壊しかねない徒党を解体する。

現代的な「政治」の理解(利害調整、友敵の設定...etc)とは全く異なった「政治」の可能性を古代ギリシャ・ローマの人々や近代の政治思想家は見ていた。現代社会においても「原初的な部族社会原理」は蔓延っているが、これを解体する「政治」は現代において如何なる「装置」によって可能なのか。

交換échangeを肯定しているのではなく、それが発生する現実、メカニズムを押さえた上で、「最後の一人」の「自由」の実現を目指す、というのが、彼の政治学なのだろう(ただ前回のマキャヴェッリ「マンドラゴーラ」の分析はよく理解できなかったし、女性の交換を「大円団」としているのはいかがなものかと思ったが)。

 

余談。同じく社会人類学の重要概念である、réciprocité(レシプロシテ)についても興味深い指摘があった。通常réciprocitéは「互酬性」と訳されるが、これではだめだと注意を促している。

「réciprocitéはéchangeと不可分であり、「互酬性」という訳語で頻繁に見かけますが、いかにも造語であり、(底なしの関係たるを表現する言葉であるにもかかわらず)この日本語には定まった対価関係のイメージもつきまとう」

故にréciprocitéをそのまま使っていると書いている。お中元を送り合うとか、子供が親の面倒を見るくらいのイメージしか湧かないが、本来レシプロシテとは底なしの関係なのだ。

モンテスキューのようにréciprocitéをクリアに意識し、その土台の上に市民社会を築く、というような考えも現れました。今日、公法を裏打ちするような政治理論の標準版はこの層に遡るとされます。法学とじつに相性が良いということを直感できるでしょう。国家に対して市民の権利をまるで民事法におけるように守るというわけです。とはいえ、18世紀においてこれらは政治理論であり、決して法学にはならなかったということを忘れてはなりません。」

交換と同じように、ここでもレシプロシテをクリアにしたうえでこそ、政治が成立するとしている。

おそらく近年の贈与論の盛り上がりについても、このような木庭の指摘を無視することはできないだろう。

マキャヴェッリ「マンドラーゴラ」

「マンドラーゴラ」(脇功訳、『マキャヴェッリ全集4』所収)を読んだ。マキャヴェッリの喜劇である。キャラが立っていてセリフも気が利いていて筋も意外に読ませるものがある慣れた筆致なのだが、その全体的な印象は珍妙。木庭顕が「政治的階層の堕落批判のみならず、その再建方法の模索が作品において遂行され」(『人文主義の系譜』)た作品とあり、全集の解説でも「きわめて庶民的で、色彩豊かな言葉のやり取りにもかかわらず低俗に堕さず、鋭い批判精神に基づいたある種の品位が感じられる作品」とあるののだが、こちらに素養がないためか、そのような印象は受けなかった。

パリ帰りの裕福な青年カッリーマコが、地元フィレンツェにいるルクレツィアという貞淑な人妻の評判を聞いて夢中になり、カッリーマコの召使であるシーロや食客であるリグーリオとともに、その間抜けな夫ニチア博士を騙して……というのが主な筋立て。カッリーマコはリグリーオの悪知恵で、ニチアとルクレツィアは不妊に悩んでいるのを利用し、偽医者に扮し(ラテン語を使えるので信用される)、僧ティモーテオをお金で協力させて、ルクレツィアに接近しようとする。

この作品では女性は交換される財で、主な機能は子をなすことである。その強固な前提がやはり気になってしまう。

「良心ということに関しては、この一般原則を守らなければいけません。つまり、確実な善と、不確かな悪とがある場合、その不確かな悪を恐れて、善を逃してはいけません。今の場合、確実な善というのは、あなたがお子を身ごもることです。神さまからひとつの命を授かりなさい。で、不確かな悪というのは、水薬を飲んだあとで、あなたと寝た男が死ぬかもしれぬということです。」(ティーモテオ)

加えて、(過程は省略するが)最終的にカッリーマコはルクレツィアの寝室に忍び込み「事が成就する」のだが、なんと利口で貞淑であるはずのルクレツィアもカッリーマコを受けいるのである。

「狡いあなたと、間抜けな夫と、軽率なわたしの母と、あの神父の悪賢さとに、とうとう、わたし一人では、とてものことにしたりはしないことをしでかす羽目になったのも、神さまのお決めなさったことであり、そう神さまが望まれたのなら、わたしには神さまの望まれること、とてものことに拒んだりできはしないわ。」

これはカッリーマコの独白に埋め込まれた(伝聞の形の)ルクレツィアの言葉の一部。「これからいつもこうしたいもの」とまで言うのである。いくらなんでも性格が変わりすぎではないだろうか。これが本当にルクレツィアの意思だったのか。物語はこれで結末を迎えるのだが、木庭氏曰く、

「ルクレーツィアは、全てを脱ぎ去ってのストレートな求愛に対して全面的に応えた。つまり、うしろめたさや負い目やその他のコストゼロである。そのまま実質的な婚姻の関係がカッリーマコとの間に継続され、それを周囲が認知し、そして子供も生まれる。ニチアは永遠に気づかない。隠して誰も不幸ではない。」

「ルクレーツィアを引っ張り出して結合するのではなく、端的に入って行って獲得するので十分であり、またそうしなければならない。中心の政治自体が硬化症を起こし、領域に足を伸ばしていないのである。むしろ、目の前に明瞭に開けたショートカットの道を奇貨とすべきである。否、電線のショートである。」

「『マンドゥラーゴラ」において主人公が達成したのは極度に自然で透明な、ルクレーツィアとのエシャンジュであった。そして何よりもわれわれは『ベルファゴル』を読む。この世が地獄で地獄が天国であるのは、特に女性が媒介する、エシャンジュのせいである。(略)(※マキャヴェッリは)エシャンジュを忌避するのではなく、領域上のエシャンジュと正面から向き合って透明化しなければならない、というのである。」

部分的に見て論うのではなく全体を見て判断すべきなのはいうまでもないが、果てしてこれが「大円団」と言っていいのか、市民社会における「透明化」された「エシャンジュ」(交換)の劇化なのか。どうにもよくわからないところがあったというのが正直な感想だった。

木庭顕『ローマ法案内』その2

木庭顕『ローマ法案内』からの引用。「カルト集団の政治浸透について : 若干の問題整理」(『法律時報』2022年11月)を読む上で役立ちそうなところ。

 

「以上のように、都市は神々という概念を巧妙に使って実現された。この点はしばしば、ギリシャ・ローマの社会が「国家宗教」体制を有するというように解されてきた。都市の物的装置ばかりか、政治システムの手続を区切る儀礼にも神々の概念は多用されたからである。しかしギリシャ・ローマの社会は、むしろ政治が宗教を完全に制圧した状態にある、と言った方が正解である。政治的決定は決して宗教的権威に服することはない。政教分離は徹底された。しかしだからといって宗教の存在を否定するということはない。そもそもそれは単に野放しを意味するであろう。政治システムが大きな穴を抱えることを意味する。とりわけ宗教が不透明な集団や再分配作用を媒介したとき、政治システムを破壊する権力が現れたことになる。だからこそ、基幹の神々の概念は、神々を特殊で具体的なテリトリーに立たせることによって中和される。神々はまるで人々のように自由なヴァリエーション対立を特徴とする様々な話の登場人物となる。肉体を持たされ、恋愛に耽る。文学化される、と言ってよい。ローマではこの文学科の度合いが少なく(したがって「ギリシャ神話」はあっても「ローマ神話」は厳密には無く)、神々はもっぱら儀礼の中にしか登場しない。人々は儀礼の中でだけ神々を思い浮かべ、それ以外では神々を意識しない。ギリシャでもローマでも信仰の概念は存在しない。初めから議論の前提をなす批判の対象たるを免れない。他方、このように政治システムと関連付けられた神々以外の神々を観念することは、それが私的なものであれば全く自由である。つまり政治システムを形作っている観念体系を侵食しさえしなければ自由である。侵食すれば、それは自由を破壊していると捉えられる。何故ならば、都市中心の物的装置実現に寄与している観念体系は、公共空間の実現を通じて自由を保障するのに貢献しているばかりか、宗教的権威を解体するデヴァイスでもあるからである。」(42頁)