カデール・アティア 《記憶を映して》(2016)

 国際芸術祭「あいち2022」に行ってきた。と言っても、時間的都合から愛知芸術文化センター一宮市会場の一部しか見られなかった。

 

 わたしが見た中で最も印象的な作品だったのが、カデール・アティア Kader Attiaの《記憶を映して reflecting memory》(2016)だった。

Reflecting Memory, 2016  

 

 本作は「幻肢痛」をテーマとした40分程度の映像作品だ。事故や病気のために手足を切断した後、既にないはずの手足の痛みを感じるという症状。日本でベストセラーとなった『脳の中の幽霊』でも取り上げられていた。

 

 本作では外科医や作家、義肢装具士、精神病理の学者たちといった専門家からミュージシャン、ダンサーなど様々な人々のインタビューから構成されている。

 

 専門家のインタビューとミュージシャン、ダンサーのインタビュー、そして時々インタビューされているわけではない人々が挿入される。最後のカテゴリーの人々は教会で祈ったり、事務室で座っていたり、森や公園の中で仁王立ちしたりしているのだが、ある方法で映像の終盤に元患者であることが明示される。

 

 本作が面白いのは、幻肢痛の話が歴史的なトラウマや人種主義やホロコーストに接続されることと、元患者よりも専門家たちがペラペラ喋っているところだ。

 

先に後者について書くと、普通、幻肢痛についてのドキュメンタリーを撮ろうとした場合、「当事者」の話をメインにして、補助的に専門家のインタビューを挿入するという構成にする。だが、本作ではもちろん元患者であるダンサーやDJもインタビューを受けているのだが、座ったままの男性や女性、仁王立ちしているだけの男性などは一言も喋らないのだ。これは幻肢痛を単なる「特殊な症状」として扱わず、「幻」という存在、歴史的なトラウマの話に展開するための選択と言えるのかもしれない。

 

 不在の身体が痛むように、そこにないはずの過去の辛い記憶が回帰して苦しみをうむのがトラウマだ。家族の死、戦争や民族紛争の記憶、ホロコーストの経験は何十年経っても、生存者を苦しめる。

 

 驚いたのは、精神分析の専門家としてフェティ・ベンスラマが登場したことだ。ラシュディ事件を論じた『物騒なフィクション』で知られている。丸々としたお爺さんという体で、おそらく二回以上インタビューを受けていた。感想を検索してもベンスラマに言及している人はいなくて、日本での知名度の低さにがっかりした。

 

 ベンスラマの方法は社会の存立の前提に精神分析的な問題を求めるというアプローチとでも説明すればいいのだろうか。本作では、共同体にとっての死者や共同体が幽霊という存在を必要とすることについて、また政治体や教会について、雄弁に語っていた。印象に残っていたのは、「宗教が自ら変わることはなく、社会が変わることで宗教の側も変化を余儀なくされる」とう指摘。これはキリスト教も同じ過程を経ていて、イスラム教についても同様だろうという見立てだった。

 

 タイトルの「記憶を映して reflecting memory」とは、幻肢痛の鏡を使った療法から来ている。ダンサーが鏡を使わなければ、自分の身体がわからないと言っていた。これは療法のことを指しているのだろうし、手を失う前のダンサーとしての経験からも来ているのだろう。鏡というモチーフは視覚的にも活用されていて(そういえば精神分析では鏡像段階が理論的な基盤である)、元患者たちの目の前には衝立のように鏡が置かれていて、まるで手足があるかのように映像に映っている。本作でインタビューされない元患者たちの寡黙さが強く印象に残るのはreflect(熟考)している様が際立つからなのかもしれない。

 

 トラウマの克服には喪の作業が必要であるという。ただ黒人差別の専門家が、人種差別の現実は進行中の問題であり、喪というより鬱というべきであるという指摘をしていた。

 

 精神科医のインタビューで本作は締め括られる。15歳で窓から落ちるという事故で手術を受け、のちに自身も神経外科医になった人物とのエピソード。再会後の手紙には、同じ手術室に来られて嬉しい、ここから自分の人生は始まったんだ、という言葉が書かれていたという。本作はこの言葉で閉じられている。

 

 そのほか音楽のダブはレゲエから歌などを引いた幻のようなもので幻肢痛に似ているというミュージシャンの指摘も面白かった。幻というモチーフでさまざまなものが繋げられている。

 

 カデール・アティアはアルジェリア系の移民としてフランスに生まれ、フランスとアルジェリアで育ったという。「幻」の探究が社会や歴史の問題に接続されて作品を作られているのがよかった。

 

 雑然と書いてしまったが、「あいち2022」では他の作品も面白かった。奥村雄樹さんのルーシー・リパードの展示の再現、百瀬文さんの過去作《ヨカナーン》も見たことがあったのでちょっと覗くだけのつもりが引き込まれて最後まで見てしまった。唐突に股間を弄るジェスチャーがおかしい。

 

※※

 

ところで、「あいち2022」にとってトラウマとも言えるのは前回の「あいちトリエンナーレ2019」だが、わたしが見た限りではその点について明示的に言及した作品はなかった。日本の植民地主義を取り上げた作品も見つけられなかった(見落としているか、あるいは他の会場にあるのかもしれない)。

 

むかし柄谷行人が「遠い他者」と「近い他者」について書いていたことを思い出す。一般に考えられているのとは逆に、時間的にも空間的にも離れている「遠い他者」について考えるよりも「近い他者」について考えることの方が困難を抱える。トラウマは忘却したと思っても回帰する。新たなスタートとなるはずの「喪の作業」は次回のトリエンナーレに持ち越されたのだろうか。

 

 

ベンスラマはこんな顔https://en.wikipedia.org/wiki/Fethi_Benslama



 

 

 

 

 

PARAレクチャー・福尾匠「なぜ制作だけでなく作品があるのか」感想(というほどではないメモ)

 神保町で福尾匠さんのレクチャー「なぜ制作だけでなく作品があるのか」を聞いてきた。PARA「作品とは何か」レクチャーコースの第一回だという。90分とは思えないほど充実した内容だった。

 

 あいちトリエンナーレ2019をインスタレーションの問題として考えることから始まり、ハイデガーベンヤミン、ハーマン、クラウスをインスタレーション論、作品論として読み変えていき、大和田俊、佐々木健の展示を分析し、「表現とは何か」という問題まで踏み込んでいく、という大変スリリングなレクチャーだった。詳細についてまとめる自信はないので省くが、福尾さんは「作品」という存在を理論の問題として捉え、尚且つ個別の作品の存在を消去しない、という論理の筋道を探究しているように感じた。それはきっと「制作」の新たな側面に光を当てるものでもあるだろう。

 

 ところで、福尾さんはレクチャーのまくらとして「作品に対する疲れ」という現象が起きているのではないかという話をしていた。二時間の映画を見るより、数分の動画をたくさんなんとなく見る方が楽でほっとしてしまう。作品というきっちりとしたものよりも、動画の方が生活実感として心理的ハードルが低い。もちろんその感覚に対してもどかしさもある、と。

 

 たしかにわかる話だ。YouTubeなどの動画は「パフォーマンス」の記録としても考えられるが、作品というほどきっちりしていない、というか、ゆるい。生活の隙間に差し込むにはちょうど良いのかもしれない。環境音楽的とでも言うのか。一方で、作品という存在はどうしても鑑賞者に「分裂」をもたらすものだから、疲れるのも仕方ないとも思う。となると、どう(やって)作品に出会うか、が問題なのかもしれない。わたしたちがわざわざ作品を見に行くのはどうしてなのだろう。何を求めて疲労を超えて作品を見に行くのか。

 

追記(10/2)

福尾さんの日記でレクチャーの内容について触れられていました。

https://tfukuo.com/2022/10/02/%e6%97%a5%e8%a8%98%e3%81%ae%e7%b6%9a%e3%81%8d178/

 

「影をしたためる」

 9月11日。渋谷のbiscuit galleryにて「影をしたためる notes of shadows」(松江李穂キュレーション)を見てきた。美術作家の菊谷達史、前田春日美による二人展である。

 

※三人のインタビュー

https://bijutsutecho.com/magazine/interview/oil/26027#.YybTgVVFAlo.twitter

 

 一階には菊谷の作品、二階には前田の作品があり、三階には菊谷と前田の映像作品がメインだ。

 

 松江のテクスト「影をしたためる One note on the shadow」によれば、菊谷は「iPhone上に残された身近な記録写真や映像をもとに虚実を織り交ぜながら、ポップアートや近代絵画、イラストレーションを混合させた平面作品やアニメーションを制作してきた」。記録された写真や流通するイメージとは「現実世界の二次的な副産物」であり「影」であるという。ひと昔前であれば、シミュラークルと呼ばれたものだろう。

 

 インタビューによれば、「絵画の起源は去り行く恋人の影帽子を壁に残した」ところから始まったというプリニウス『博物誌』にある「絵画の起源」のエピソードが今回の企画の出発点にあったらしい。

 

 ストイキツァ『影の歴史』で読んだ記憶がある。恋人の影の絵。それはたんなるイメージではなくて、イメージ(影)のイメージ(絵)である(ことが論じられていた気がするが、記憶に自信がない)。影をしたためるとはこのことを指すのだろうか。

 

 菊谷の絵画は小さく(ゼロ号というやつだろうか)、スマートフォンを横にしたようにも見える。ある作品の額縁にサインペンで「草をかる様に、石を取る様に、写真を撮る。獲る」と殴り書きされていたが、わたしたちはプリニウスの恋人たちのように、iPhoneに恋人や家族の写真を収めている。それはまだイメージ(影)でしかないので、菊谷はまさに「イメージのイメージ」として絵画を描いている、のかもしれない。

 

 二階には前田の近作・新作が展示されている。《vis a vis》(2020)は、アコンチ的な映像作品。ただアコンチがカメラ=鑑賞者を直視して指を指すのとは違って、前田はカメラの前に片方の手のひらを広げ顔を隠す。カメラもそれに向かい合う前田も動いているため、画面がゆらゆらと揺れている。前田の作品にはいわばルッキズム批判のようなモチーフを読み込むこともできるだろう(そういえば、アコンチの作品はある種のマッチョさと言うべきものがある)。それとアンチクライマックス性も特徴かもしれない。映像作家ならなにかしらのサスペンス性の演出やオチをつけたいと思うのだろうが、この作品は坦々としている。

 

《The way to move a hill》(2022)は、難解な作品だった。松江によると「前田の身体のサイズに合わせて作られたアームレストのような鉄製のツールとモニター、そして映像内で前田が行なっている動きの機序を記した指示板で構成されたインスタレーション作品である。映像には前田がツールを用いて行ったパフォーマンスが記録されている」。これを読んでもイメージがわかないかもしれないが、しかし、まさにこの通りの作品なのである。画面に写っているのは、接写されたツールのクッション面とそれに接触する身体。身体がバラバラになった感覚、というか、身体がそこにないこと自体が作品になっている、という印象を持った。身体の「影」を再構成した作品と言えばいいのか。この作品の正確なディスクリプションはわたしの能力ではできないので諦める。

 

 この展示でわたしが一番心を動かされたのが、3階にある前田の《遠い体》(2019)という9分程度の映像作品だった。

 

 白いスクリーン。左側に粘土が積まれている。そこにプロジェクターで作家自身の身体の映像が投影される。ハサミが入れられた隙間から両手両足のみ突き出される。視覚のない状態で、足の輪郭を粘土で埋めていく。身体は切断され、同時に出現する。投影される映像の身体自体も二重化されていて、複数の手とともに彫刻が作られていく。最後、映像は立ち去り、足の彫刻だけが取り残される。

 

 投影された身体の映像にハサミが入れらる瞬間は痛ましくも切実さがあり、鑑賞者の「わたしの身体」のあり方が揺さぶられるようだった。

 

「身体はそこに〈ある〉ものとは常に別のものである」とメルロ=ポンティは言ったが、身体はつねに「わたし」にとって違和を孕んでいる。純粋に見るわたしは存在しない。見るわたしと見られるわたしのあいだでつねに齟齬は生まれ、消えることはない。そのことは普段忘れられているが、本作はその事実を突きつける。

 

 立ち去った身体は一体どこに行ったのだろうか。あれが「わたし」の身体なのだろうか。それとも、残った不自由な硬い足こそが「わたし」の身体なのだろうか。いずれも「遠い体」であることは変わらない。

 

 この作品を見た後に2階に戻ると、二つの作品への展開がよく理解できるような気がした。どちらも身体の新たな活用法、潜在性を探求していると言えるのではないだろうか。体が「遠い」のであれば、それを使って分解して組み替えることができるはずだ。手を使えば顔のない身体をつくることができるし、ツールとカメラを使えば肌だけの、表層だけの身体をつくることもできる。

 

 前田の作品ではつねに身体がなんらかの「欠如」や「不自由さ」を抱えているように見える(なにかが「ない」)。だが、その「欠如」や「不自由さ」は否定的なものではない。いわばその身体の「影」は、あらたなる身体を作り出すためのメディウムでもある(たぶん)。

 

 そう考えると《The way to move a hill》も楽しい作品であるような気がしてくる。書き忘れたが、《壁で踊る》のシリーズもよかった。松江の「前田が身体を思考するとき、そこには自身から遠ざけていこうとする軽さと、自身に引き寄せていく重さが同時に存在しているのだ」という言葉は、作品を見る実感としてもしっくりきた。

 

 影を描くという行為は保存の行為であると同時にあらたな存在を作成する行為でもある。恋人が消えてもその影を象った絵は残る。残ったモノからその時の感情を思い出すこともできれば、新しい感情や感覚を作り出すこともできるはずだ。面白い展示だった。

 

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イヴォ・ヴァン・ホーヴェ『ガラスの動物園』

「『ガラスの動物園』で私が見出したのは、はっきりしたヒロイズムのない世界、壊れやすい登場人物たちが住んでいる世界です」(ホーヴェ)

 

 新国立劇場(中劇場)で、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『ガラスの動物園』を見た(初日)。

 

 ホーヴェのことはよく知らずイザベル・ユペール主演ということで見てきた。

 

 ステージは長方形のボックスのようになっていて、上の部分に字幕が表示される。大きい冷蔵庫だけがピンクであとは茶色い。土のような毛のような柔らかそうな素材。穴蔵のような空間だ。窓と階段を登ったところにドアがある。台所はあるもののダイニングテーブルはない。異様であるが、観劇中は気にならなかった。

 

ガラスの動物園』はトム(アントワーヌ・レナール)の回想という形式を取っている。幕が上がる前、客席からのトムが登場して手品を見せる。

 

「手品師は真実と見せかけた幻想をつくりだしますが、ぼくは楽しい幻想な装われた真実をお見せします」(小田島雄志訳、新潮文庫)

「ぼくはこの劇の語り手です、そしてまた登場人物の一人にもなります。

 ほかの人物は、母のアマンダと、姉のローラ、それにもう一人、劇の後半に訪ねてくる青年紳士(ジム)がいます。

 この紳士は劇中もっともリアリスティックな人物です、彼はぼくたち一家がどういうわけか切り離されてしまった現実世界からの使者だからです」(セリフの引用は新潮文庫小田島雄志訳による)

 

 たしか字幕ではぼくたち家族は感傷的で、ジムはリアリズムと訳されていた。アマンダ(イザベル・ユペール)とローラ(ジュスティーヌ・バシュレ)、トムの家族はそれぞれが「追憶」の中で生きている。先に述べたようにこの劇自体トムの回想であり、アマンダは幸福な南部時代の思い出を引きずり、ローラは「ガラスの動物園」のうちに閉じこもる。現実にはトムの父は蒸発し、姉のローラは内気な性格のためビジネススクールを脱落、トムも詩を書きながら倉庫の仕事に従事している。トムの同僚のジム(シリル・ゲイユ)にしても、高校時代は人気者だったが、いまは単なる労働者。夜学でラジオ工学と弁論術を学んでいる。 

 

 アマンダは子どもたちの将来が心配で、とくにローラの結婚相手をなんとかして見つけなければと奮闘している。トムの同僚のジムを家に誘うことになる。ジムはじつはローラの高校の同級生で好きだったというが、じつは……という筋立てだ。かなり辛気臭い話である。

 

 まず、ユペール演じるアマンダのテンションがすごい。子どもたちを愛し、現実から見放されても果敢に挑戦していく。ホーヴェのインタビューによるとアマンダは「弱さ」が強調されすぎると「戯画的で滑稽な人物になってしまう」。だから、「私はいつもアマンダのことを、とてつもなく回復力を持っている女性として話しました。彼女は灰から蘇るフェニックスなのです」。ユペールのアマンダは絶妙に痛々しい(が魅力もある)母親として演じられていて、「こういう人いるよなあ」と思いつつ、その迫力に打たれた。

 

トム 母さんは胸のなかに言いようのないつらい思いがいっぱいあるって言ったね。ぼくもそうなんだよ。ぼくの胸にも言いようのないつらい思いがいっぱいある! だからおたがいに胸の秘密をーー

アマンダ でもどうしてーーどうして、トムーーいつもそんなに落ちつきがないの? どこへ行くの、毎晩?

 

 ここのアマンダとトムのやりとりの場面、字幕では「どうして自分の気持ちがうまく伝えらないんだろう」というような言葉になっていて、非常によかった。

 ちなみにトムは毎晩映画館に行っているという。冒険が好きだからだ、というがゲイであるという解釈がいまでは一般的らしい。

 

 ローラ役のバシュレもとても良かった。ローラはやたらと毛布にくるまって横たわっていて、ほとんど家と一体化している。てっきりアマンダやトムの舞台として見ていたのだが、ジムが登場し、「ブルーロージィー(青い薔薇)」という彼女の高校時代のあだ名を思い出してから、二人が語り合い、内心を打ち明け、ダンスを踊ったりする場面には引き込まれた。 

 

 ガラスの動物園とは、ローラが子どもの頃から大事にしているガラスの馬やユニコーンのこと。彼女の世界のすべてだ。アマンダやトムは「ひどいはにかみ屋で自分だけの世界に閉じこもっている」ように見えているが、ジムはそれとは異なるローラの「美しさ」に気づく。次の引用はジムのセリフだ。

 

「きみとこうしているとぼくは、そのうーーどう言えばいいかな!

 いつとならいいことばが出てくるものなんだがーー

 この気持ちだけはどうもうまい言いかたが見つからない!」

「いままでだれか、きみのこと美しいと言った人いる?」

 

 観劇後に戯曲を読んで驚いたのが、舞台との印象の違いだ。この場面はとくにそうで、戯曲を読むとジムがそれこそ「弁論術」を使っているようにも読めるのだが、舞台ではまったく異なって、ジムが本心からそう言っているように感じた。

 

「ああ、ローラ、ローラ、ぼくは姉さんをきっぱり捨てようとした、そのつもりだったのにどうしても姉さんのことが胸を離れないんだ!」

 

 観劇後は上のトムのセリフのようにローラのことで頭がいっぱいになって、これが俳優や演技の力なのかと感じ入った舞台だった。ほとんど「よかった」としか言っていないのだが、感想なのでよしとしたい。

 

シネマヴェーラ/フォード特集『周遊する蒸気船』(1935)

 シネマヴェーラジョン・フォード『周遊する蒸気船』(1935)を見てきた。

 

 上映前には蓮實重彦氏のトークが20分ほどあった。『周遊する蒸気船』には二人の「インディアン」がかかわっているという。もちろん「インディアン」という名称は現在使うことのできないものですが、と断ったうえで、作中で大きな役割を果たす「ポカホンタス」という「インディアン」の娘の名前をとったお酒(ジン)。そして主演のウィル・ロジャース。かれは当時、フォードよりも遥かに有名なスターで評伝によると親の片方が「インディアン」だったという。

 

 作品にとって重要なのは前者の「インディアン」である。蓮實氏はこれから見るみなさんのために詳細は省きますがと言いつつ、蒸気船に木材を投げ込む場面でポカホンタスというお酒が果たす役割を説明する。実際、映画を見てみると終盤の蒸気船レースというストーリー的にも重要な局面で、かつ一番祝祭的でアナーキーな場面だった。木材を投げ入れ、それが尽きると蝋人形を投げ入れ(グラント将軍やジョージ・ワシントンの人形も火にくべられる)、ポカホンタスを投げ入れることで爆発的にスピードを加速させる。フォード映画において「投げる」こととは多彩で豊かな身振りなのだというのが蓮實フォード論の批評的力点であるのは言うまでもない。

 

 そのほかフォードは馬ばかり撮っているように思われているが船を撮るのもうまいとか、ヘンリー・フォンダがお嫌いだとか、『カリフォルニアドールズ』においてピーター・フォークから「ジョン・フォード」の名前が口にされるとか、タイトルにbendが入っているフォード映画がもう一つあること、『コレヒドール戦記』(海が良いらしい)、『鄙より都会へ』、『タバコ・ロード』の三作は見てほしい、などいろいろと話題は尽きなかった。

 

 なかでも淀川長治氏とのエピソードが印象的だった。1983年フィルムセンターでの『周遊する蒸気船』日本初上映後、面識のない淀川長治氏から「蓮實さん!」と呼び止められ、「えらいなあ、えらないなあ」と言われたというもの。ここから交流が始まったらしい。ちなみに「ヨドチョウ」という略称は本人は嫌だったそうで、もし知り合いにそう呼ぶ人がいたら絶交してくださいと断言していた。自分に先生と呼べる人はいないが、淀川さんは映画のショットの一つ一つを憶えていらっしゃって…と語っていたのも印象にのこっている。最後、天国にいる淀川さんも今日の上映会を喜んでくれたでしょう、と言って締めていた。

 

 そういえば今日は「国葬」なる催しがあったようだが、それよりも蓮實氏から淀川さんの話を聞いてフォードの映画を見る方が貴重な経験だったと言いたい。

 

 

ハル・フォスター『What Comes After Farce?』(2020)を読む4

 第一部「恐怖と侵犯」の末尾におかれた第6章のポール・チャン論を見てみよう。

 

Paul Chan《Rhi Anima》

 2017年3月、チャンはニューヨークの個展で《Rhi Anima》を発表した。
https://www.artnet.com/galleries/greene-naftali-gallery/paul-chan-rhi-anima/

 

 タイトルはアリストテレス「De Anima」(霊魂について)をもじったもの。チャンはこの黒いゴミ袋のようなものたちをブリーザーズと呼び、この布製の「ボディ」と一つまたは複数のファンで構成されている。プレスリリースによれば、これは「物理的なアニメーションであり、3次元的に動くイメージ」である。ブリーザーはとり憑かれたようにように踊っているように見えることもあれば、強迫的なジェスチャーをしているように見えることもある。フォスターはブリーザーズに「ゴミと化した人々、剥き出しの生の生きる人々、あるいは逆に、恐怖と嫌悪によって息を吹き返した見捨てられた人々、次なるファシストからの呼びかけを待ち望むルンペンプロレタリアート」を見ている。フォスターはそう表現していないが、いわば作品自体がFarceと言えるかもしれない。

 

 フォスターによればこの数年、チャンはオデュッセウスについて考察を進めているという。アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』においてオデュッセウスに「ホモ・エコノミクス」の起源を見いだしたが(「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」)、チャンはむしろホメロスポルトロポス(狡猾)と表現する側面に注目する。

 

 チャンは言う。「狡猾さほど人の心を動かすものはない」「私はパラドックスが好きだ。必要なんだ」。ポルトロピア(polutropia)は、文字通りには多くの紆余曲折を意味するらしい。チャンのブリーザーズはそれをまさに実演している。「この言葉はまたパラドックスについての批評的パフォーマンスにおいて複数の修辞を使用し、公式の思考法(ドクサ)に反対する一種の狡猾さをも指し示しているのだ」。

 

 修辞とはまさに「ゴミと化した人々、剥き出しの生の生きる人々」であり、同時に「恐怖と嫌悪によって息を吹き返した見捨てられた人々、次なるファシストからの呼びかけを待ち望むルンペンプロレタリアート」に見えるという形象の力によるものだ。フォスターはさらに「ブリーザーズ」という言葉から「息」のモチーフを読み取り、警察に虐殺されたエリック・ガーナー(”I can’t breathe”)や「集団で呼吸する」という語源を持つ「陰謀conspire」、そして、ゴヤの《The Coven》 (1823)やクー・クラックス・クランの儀式、ハロウィーンの衣装や駐車場の垂れ幕まで、連想を膨らませる。これは「ブリーズ」の象徴性を利用したチャンの作品に内在するものだとされる(先行する作品としてデイヴィッド・ハモンズの《In the Hood》(1993)をあげている)。

 

David Hammons《In the Hoodhttps://news.artnet.com/market/david-hammons-at-mnuchin-482738

 

 フォスターによればチャンは「政権の初期においてトランプ主義のひどい不条理さ、それがいかに滑稽であると同時に恐ろしいか、漫画的であると同時に破滅的であるかについて」わたしたちに考えさせることができた。そしてフォスターに言わせるとチャンは「廃墟の中に愛させも見出している」というのだ。

 

 「フィクションのユートピア的きらめき」(ベン・ラーナー)を探究するとは「現実の表象の脱構築から、表象を介した現実の再構築への転換」(版元のversoのインタビューより)を志向するということである。ポール・チャン《Rhi Anima》は、ユーモラスな方法で「表彰を介した現実の再構築」をはかったと言えるだろう。

 

 ※第12章「アンダーペインティング」では、ケリー・ジェームズ・マーシャルの「絵画の歴史」という展示を取り上げている。マーシャルは西洋絵画史において黒人の表象が不可視にされてきたことをテーマとして掲げてきた作家だ。ホルバインの《大使たち》をモチーフとした作品などいずれも興味深く、この作家についても回を改めてまとめたい(映画作家として認識していたが美術の領域でも重要性を持つらしいファロッキについても同様に記事を作成したい)。

Martha Rosler Reads Vogue(1982)

北千住BOuy「Bedtime for Democracy」(

https://buoy.or.jp/program/bedtime-for-democracy/

)にて、マーサ・ロスラー《マーサ・ロスラー、ヴォーグを読む Martha Rosler Reads Vogue》(1982)を見てきた。

 

 1981年に設立されたニューヨークのケーブルチャンネル「Paper Tiger Television」で放映されたライブ・パフォーマンス。


 マーサ・ロースラーが小さな化粧台の前に座り、ヴォーグを読んでいる。ヴォーグは言わずと知れた世界的なハイ・ファッションの雑誌だ。本作では雑誌の表象(誌面や広告)をめぐって、それがいかに性差別的な構造になり立っているかをコメントしていく。シューベルトの音楽をBGMに、例えば次のようなナレーションが重ね合わされる。

 

ヴォーグとは何なのか?

それは写真であり、覗き見であり、神秘化であり、魅惑であり、欲望であり、同一化である。

それは外見であり、ポーズであり、ラグジュアリーの肌である。

それはお金であり、贅沢である。それはすべて、すべて、すべてを手に入れること。

服、毛皮、香水、男、高価な男! ファッションであり、

それは芸術、それは建築物、すべてを手に入れること。

金持ちになることであり、階級の優劣を決めること。

ヴォーグとは? それは脅威であり、退廃の香りだ。

 

 映像の構成としては次のように進む。ロスラーがめくり終わると次はスライドに移り同様の表象批判が続き、終盤に中国終盤の中国の縫製工場のフッテージが挿入される。高級ブランドがいかに「第三世界」の安い労働力によって成り立っているかが暴露され、レーガンの妻ナンシーのスキャンダル(当時、ナンシーの着たドレスをつくった工場が違法労働で取り締まられたという)というエピソードを経て、鏡の前で化粧を落とすアーティストのイメージで締めくくられる。正面を向いたロスラーの顔は半分だけ素顔を晒している。

 

 図録には「消費中心主義、メディアが内包する女性の身体への欲望、労働の暗部、余暇と消費を巡る問題が明らかにされ、埋め込まれた記号が解体されていきます」とある。いわば表象にまつわるジェンダー批評的批判、そして従属論的な資本主義批判を組み合わせた作品と言っていいだろう。ロスラーが雑誌を撫でるようにめくっているジェスチャーが印象的で、これは私たちがいかに官能的に記号を欲望しているかを表しているのだろう。

 

 たまたまなのだろうが、ヴォーグの誌面に登場するサイ・トゥオンブリーが当て擦られている(「1957年からイタリアに住居を構えたその家は彼自身のようだという」という引用)。

 

 気になったのが、ヴォーグを発行するコンデナストを当時、買収したニューハウスとのエピソード。ニューハウスはハゲていて銀行員のような見かけだったが、女性といえば見境なく手を出す好色漢だったという。ロスラーは彼と交流があったらしく、ロンドンのパーティであったときのことや、ある時、タクシーの中で突然、スカートを持ち上げ潜ってきたことなどを話している。「たぶん彼と関係を持ったのは、意外だったからだろう」。このエピソードが本当なのか嘘なのかはわからないが、当時ですら訴訟リスクはあったわけで(そもそも雑誌の「引用」ですらその危険はあっただろう)、アーティストの果敢さに胸を打たれた。

 

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