「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」

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先日、国立西洋美術館で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見てきた。副題に「国立西洋美術館65年目の自問 現代美術家たちへの問いかけ」とあるように、1959年の西洋美術館開館以来初となる現代美術展である。

気づけば2012年のユベール・ロベール展(廃墟!)以来の来館となった。乱暴に要約してしまうと、さまざまな現代作家による収蔵作品からの影響・反響としての作品や、西洋美術館という場所への批評性を内在した作品を、近代日本の美術制度への批判を試みた活動を含む作品が展示されている。

第一印象としてなんと言っても、文字量の多さである。およそ21組の作家が参加しているので、すべてを注視することは時間的な余裕がなければ難しい。おそらく普通の鑑賞者にとってはかなり難しいだろう。

ちょうど読んでいたクレア・ビショップ「情報オーバーロード Information Overload」(青木識至+原田遠訳、『Jodo Journal 5 2024 SPRING』)は、リサーチ・ベースド・アートの形成を論じた論考であるので参照する。

「過去二〇年間に出現した、そういったリテラシーや鑑賞の新しい形式のための二つの主要な見出しは、スキミングとサンプリングである」(67頁)。スキミングとは素早く要点を読むこと(カード詐欺用語でもある)。サンプリングは、音楽のサンプリングではなく、科学において「データセットが分析するには大きすぎる時に」「サブセットが分析のために選ばれ、結果が推論され、そうしてより大きな単位に対して一般化される」こと。作品の一部から全体の「意味」を類推することを指す。

どちらも情報テクノロジーの発達の中でーー特にオンライン上のテクストを読むときにーー私たちが日常的に行なっている行為である。ビショップによれば、リサーチ・ベースド・アートにおいて「スキミング」と「サンプリング」という鑑賞の形式を強いられるという*1

よって、今回の西洋美術館の展示においても「スキミング」と「サンプリング」を強いられるわけだが、ビショップのいう「ポスト・デジタルな疲労」を感じることは避けらなれなかった。

脱線するが思えば、「炎上」という現象も「スキミング」と「サンプリング」という鑑賞形式によって生じる。アテンション・エコノミーが前景化した世界では日夜、さまざまな現象が「炎上」「問題化」するため、さっとブラウザし、断片から全体像を類推するしかない。ゆえに、「何かが問題になっているらしい」という程度しか知らない(あるいは全く知らない)ことはあまりに多い。

とはいえ、展示を見ている中で感じたのは「ポスト・デジタルな疲労」だけではない。近代における美術制作やコレクションの意味を問う作品に心惹かれ、その意味するところに目眩するような感覚に陥ったのは確かだ。

たとえば飯山由貴「この島の歴史と物語と私・私たち自身ーー松方幸次郎コレクション」「わたしのこころもからだもだれもなにも支配することはできない」(どちらも2024)。

前者「この島の〜」は飯山作品は西洋美術館の元になった松方コレクションを題材とし、フランク・ブラングィンの松方肖像画(1918)やウジェーヌ・ルイ・ジロー《パリ市庁舎における裕仁殿下のレセプション》(1921)といった作品を展示し、その間を埋めるように、飯山が「リサーチ」した西洋美術館の歴史、並びに日本近代史、日本近代美術史におけるジェンダー差別やレイシズムを批判する文章や引用(エメ・セゼールなど)からなる。これらはすべて手書きである。

リサーチに基づく文書の隙間に時折、次のような一節が差し込まれる。

「自らを語るためのイメージがある、そして、ことばがあるということは、力そのものだ。だからこそ、作り出すことは構造的な暴力に加担することがあるし、対抗しようとする集団や個人の力になる。」

また床部分にも文章が書かれている。

「この島のマジョリティの人々の言葉と手による、日本帝国が行った植民地支配とアジア太平洋戦争敗戦についての規範的な語りはない。この記憶喪失状態が、植民地化と侵略の被害と課外に関係する人々の精神と身体を癒すことは決してないだろう」

進行方向から見て奥には後者「わたしの〜」が展示されている。飯山のテクストの上にポストイットで参加者がそれぞれメッセージを書き貼るような作品になっている*2

すべてのテクストを読むことは、おそらくできない(上部のテクストは私には判別不可能だった)。しかし、部分的に引用された部分からもわかるように、メッセージははっきりとしている。可読性を超えて、メッセージが現前している。

その主旨には賛同するとしても、いささか素朴だと思ったのは事実だ。贅沢を言えば、西美のコレクションの絵画と自身のテクストをそのままぶつけるのではなく、より構造化された作品において、近代性を問うことができればよかったのではないかとも思ったが、手書き文字に異物感があり妙な印象が残った。

この作品の異物感は、見ている最中よりも見た後により迫ってくるように感じた。特に常設展のコレクションの異様さーーコレクションのしょぼさと偏り(キッチュとも違う。アンバランスな、つぎはぎのような、泰西名画的な不思議なコレクションだ)ーーを目の当たりにした時に、目眩のような感覚が回帰してきた。

コレクションの異様さは何に由来するのか。カタログの中で松浦寿夫は日本の美術館におけるコレクションについて語っている。

「1985年から3年ほどパリに滞在していたさい、美術館の常設部分のスケールにはやはり圧倒されました。日本の美術館で感じる「記憶の重圧」とはレベルが違う。うんざりするほど多数の作品があり、美術家にとってこの状況が身近にあるのはいつでも見学できるという意味で理想的ではありますが、逆に嫌かもしれないとも思いました。」

「日本の場合、まず常設部門が貧困です。」

「そこまでコレクションをもたない日本で代替的な存在といえば、やはり書籍です。」

ユベール・ロベールではないが、日本では「廃墟」にすらなっていないのである。廃墟以前に「建築」ができていないのだから。制度構築の不十分な状態での制度批判とはどのような意味を持つのか。

しかしすでにどこの国でも美術館という「殿堂」はすでに安定したものとはあり得なくなっている。資本主義の世界において聖域はない。

「いっぽうでニューヨーク近代美術館の場合、基本的には収蔵品を売却しないという従来の美術館運営のありかたとは異なって、設立当初から収蔵品を一部売却することで新しい作品を購入していました。半永久的に収蔵されることで価値が蓄積され、そのうえに成り立っていた美術館の構造が変わり、こういってよければ、安心して作品が眠れる場所ではなくなった。マーケットに対して自立した立場をとってきた美術館もいまやマーケットの論理に呑み込まれそうになっている。現在に近づくほど市場価値と芸術的な価値との関係も非常に不明瞭になってきています。そして同時代の作品ばかりでなく、過去の作品も危機に瀕しています。」(松浦寿夫)

古典であれ、現代の作品であれ、作品が安心して「眠る」場所はもう存在しない。出展作家の中には、美術生産過程のヒエラルキーを批判するものもいたが、所詮正史に連なろうとする欲望でしかなく、正史自体が安定した基盤を持ち得ない時代において、それが叶えられることはないだろう。

「リサーチ・ベースのインスタレーションにおける最も豊かな可能性は、既存の情報が単に切り貼りされ、集積され、展示ケースに投下されるのではなく、それらが自らの方法によって世界を感受する独特な思考者のもとで新陳代謝されるときに現れる。」(クレア・ビショップ「情報オーバーロード」72頁)

飯山作品において、「既存の情報の切り貼り」という側面は否めないだろう。だが、それは西洋美術館という空間において、「世界を感受する独特な思考者」のもとで今まさに「新陳代謝」されようとする瞬間の手前にある作品なのだとしたら、どうだろうか。そしてそれが抗議活動に繋がっているとしたら? もちろん抗議活動は作品ではないだろうが、新たな作品の種子となりうる。

飯山作品の居心地の悪さは眠る場所のありえない世界におけるそれであって、美術館を超えて、呼びかけている。その呼びかけは「眠る」場所がもう存在しないということを呼びかけているのか、それとも「眠る」必要がないということは呼びかけているのか、それとも別のありかたを求めているのか。それはまだ私にはわからない。

 

*1:「二〇〇二年のドクメンタ11が、六〇〇時間以上のビデオを含んでいたのは有名で、それを全て見ることができるのは、鑑賞者が一〇〇日間の展示の全期間を通して滞在した場合のみである」(66頁)という。

*2:ポストイットの部分はあいちトリエンナーレ2019の時のモニカ・メイヤーの作品のような感じ