エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』

エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』を読んだ。

竹村和子の解説を先に読み、問題提起的であるものの、そのラカン解釈に違和感があった。ライトによる本文を読んだが、竹村とライトの間でも解釈の違いがあるように思った。

 

解説で注目すべきはフロイトラカンの理論は「バックラッシュ」であるという指摘だ。フロイトの存命期間は、欧米やオセアニアで女性運動が組織化された時期だった。1893年ニュージーランドで女性参政権が初めて施行され、オーストリアでは1919年、ドイツでは1918年に認められた。
「資本制が産業資本主義から消費資本主義へと移行するなかで、エディプス的ドメスティシティは確実に空洞化するはずだった。まさにその時代に、一種のアナクロニズムとも言える過去追認的な姿勢で、フロイトは性的差異に固執したのである」
女性運動の拡大を前にした怯えが、フロイトの理論を波及させた一因ではないかという問題提起だ。竹村は触れていないがD=Gの『アンチ・オイディプス』に共通する観点だろう。
ラカンについてはより巧妙な「バックラッシュ理論」だとされる。
問題となるのがラカンの「性別化の式」。ファルス機能(去勢)に対する関わり方の差異によって論理的な位置付けがなされる。竹村はライトの本書をフェミニズムの見地から「性別化の式」わかりやすく解説していると評価している。
「本質的属性や身体的特性によって各容態が自足的に方向づけられているのではなく、関係性によって規定しあっている。さらに両者には「性関係はない」(『アンコール』)と断言されているので、欲望の諸関係は、身体的部位に牽引される異性愛主義からは、原理的に解き放たれている。」
竹村はまさに「フェミニズムが待望していた公式と言えるだろう」とまで評価する。

だが、竹村は次のように続ける。
「しかし問題は、そうであってもなおこれが「性別化の公式」と名づけられたことである。また二つの位置を分かつ象徴として選ばれたのが「ファルス」であること、そして十全たる快楽からの疎外が「去勢」の比喩で語られていることである。」
ラカンは「ファルスは現実の器官ではない」というが、「そうではない」と言いつつ「そうである」と思い込ませる修辞的な力があると批判するのだ。

しかし、本文ではライトは次のように書いている。

フェミニストは「ファルス」が単純にペニスとはイコールで結べないということを十分にわきまえてはいても、やはり男性の肉体の一部分に由来する象徴を使うことには反感を覚える。」

フェミニズムのファルス批判は、性別化過程の意味についての誤解にもとづいたものである。」

ファルスはあくまで機能であって実体ではない。西欧の文化的幻想の歴史のなかでファルスがペニスの役割を果たしてきたが、ラカンの性別化の説明は特定の文化に限られたものではない。これはラカン派的な護教的レトリックに見えるかもしれないが、ライトは次のようにも認識している。

「これらの公式は、特定の主体がどの客体を選択するかという生物学を横断する問題とはまったく関係がない。だが、客体の選択がいかに多様であっても、ずっと遠い将来に人間の生態がいかなるものになろうとも、社会というものはなおも、なんらかの二分法を求めてくる。「去勢」に相当するものは、やはり存在しなければならないだろうし、それがなければ、言語に入ることができなくなってしまうだろう。」

竹村は「ファルス」や「去勢」という男性的な修辞に反発を覚える。一方ライトは必ずしも「去勢」と呼ばなくてもいいが、それに相当するものは、人間が言語的存在であるかぎり、存在し続けると言う。この差異はわずかなようだが、大きい。

竹村はフェミニズムフロイトの性差別的言辞を批判するだけでなく、性別化の前提をくつがえす新しい心理理論を打ち出す必要があると書いている(「そうでなければフェミニズムの議論は、無政府主義的な抵抗にはなりえても、生を希求する主張にはなりえない」)。しかし、ライトに対して、「身体」という概念と「ファルス」あるいは「去勢」の概念との関連が曖昧であると書き記す程度で(その理路も不鮮明)、その理論的全貌は不明である。

竹村の解説では最後、唐突にローマ法王ヨハネス・パウロ二世の保守的な性別発言と2004年のブッシュ再選が批判され、宗教的熱狂のなかで、「性的差異が不可侵の身体として称揚」されると指摘される。

「「女は存在しない」とラカンは言った。しかしラカンラカン派が性的差異を「形式」として捉えれば捉えるほど(彼らの議論はあまりにも難解で人口に膾炙してはいないが)、グローバル化する世界情勢のそここで発生している暴力布置への理論的介入を阻み、その結果、現存の体制を思想的に補強していく。」

これはあまりに牽強付会だろう。ラカンとブッシュの再選には何の関係もない。ラカンカトリック的な背景をもっていたとしても、ヨハネス・パウロのコンドーム禁止令とは何の関係もない。難癖にすぎないことは「彼らの議論はあまりにも難解で〜」と書かれていることから、竹村自身にも自覚されている。

この錯誤は、竹村が「性的差異」を把握し損ねていることから来るのか、それとも把握したうえで「別の理論」を希求していることから来るのか、どちらだろうか。(続く、かもしれない)