木庭顕『ローマ法案内』その3 交換関係と自由について

木庭『ローマ法案内』で(私が理解できた範囲で)一番重要と思われたのが、交換関係と「自由」についての洞察だった。

木庭は人間の活動にとって、具体的な空間、特に土地、テリトリーが欠かせないことに注目する。テリトリーの上で経済活動も行われ、その「果実を巡って取った取られたの関係(※=交換関係)が発生」し、それは「人間の集団」へと発展する(「1−5 都市が無ければ政治は無く、したがって法もない」35〜40頁)

「テリトリーと交換関係(échange)の間の複雑な展開は社会人類学が高度な分析を蓄積し、贈与交換関係などのメカニズムが解明されてきた。およそ集団ないし組織を考えるときの基本であるが、しかしそうであるならば、空間の中でわれわれの活動の主要部分は必然的に支配従属関係を発達させるということにもなる。そて、あらゆる種類のテリトリーは流動的であり、また流動的故に衝突し、衝突に備えて人の集団がテリトリーの線引きを越えて形成される。つまり実力(暴力ないし軍事化)が発生する。」

木庭に言わせると、ここに「政治」に存在しない。何故なら、政治は個人の自由のため、つまり徒党(交換よる支配従属関係)を解体するために存在するからだ。

政治と生産活動(テリトリーに具体的に関わり果実を取る活動)との間には深刻な二律背反がある。一切のコミュニケーションを絶った自給自足の世界であれば、支配従属関係は発生しないが、ユートピア=反ユートピアとしてしかあり得ない(『オデュッセイア』では「独つ眼のキュークロペース」の逸話で表現されているらしい)。ホッブスはこのこと気づいており、「社会契約」や「自然状態」を構想したときの着想源であったという(キュークロペース同士の契約)。

契約とは言葉の交換である。次にどこでそれをするのか、という問題が発生する。

「誰かがテリトリーの上で費用=果実連関を遂行している真っ最中はだめである。彼の支配に属してしまう。一人一人自由独立であるという前提に反する。そうすると誰も支配していない、そして如何なる費用=果実連関にも立たない、空間を共同する必要がある。」

政治はそのような共同の空間で行われる。「政治を直接担う活動は言語だけが君臨する空間において出なければ実現しない」。そこで初めて人は「自由」になる。

面白いのが、古代ギリシャやローマにおいて、「共同の空間」をつくるために様々な工夫がなされたという一例として、「石畳」が挙げられていることだ。「誰も種を蒔けない」のでここでは「費用=果実関係は遮断されている」。「共同の空間」を体現するのが、古代ギリシャ・ローマ的な意味での「都市」だ。ギリシャ・ローマでは「神殿を公共空間創設の柱」とした。

「都市を持つということはこのように空間を厳密に二元的(※交換関係にもとづく空間と「共同の空間」)に捉えるということであるが、政治を備えたいというのであれば、これを思考の基本カテゴリーとして有しなければならない。今日でも西ヨーロッパにおいては(南では即物的に、北では多分にヴァーチャルに)この基本のカテゴリーは生きており、「都市」と「領域」、公共空間と私的空間、はほとんど哲学的な二元論を形作っている。」

木庭に言わせると、今日の都市は古典的な都市とは大きく逸脱しているが、それでも近代都市は古典的都市の上に発展してきたのだという。

 

木庭の別の本からも引用しよう(『笑うケースメソッド 現代日本公法の基礎を問う』)。

「フランス社会人類学でいうéchange(エシャンジュ)のことだと思いますが、私は一番追い詰められた個人の自由が保障されるので無ければ意味がないと思っていて、だから、追い詰めるほうのメカニズムとの関係で追い詰められる個人の自由を論じなければ意味がない。自由とは何かも、どうやって自由を守るのかも、そうやって論じなければ。」

「集団のメカニズムが働いて自分を追い詰める、そういうのが嫌でたまらないという考え方、これがギリシャ・ローマからくるからでしょ。悲劇を読めばわかりますよ。いや、ホメーロスやヘシオドスに濃厚に表現されています。」

「集団がもたらすメカニズムに苦しんだことがない、あるいはその苦しみに共感できない人に、自由の意味はわかりません。自由がすべてで社会の質を分ける決定的な分水嶺であるということ、すべての問題に及ぶということ、そしてその実現は解けそうにもない謎であるということ、どれだけ難しいかということ、このことを痛切に感じなければ、話になりません。」(第0章)

上の引用は学生の発言という形式をとっているが、実質木庭の考えを表明しているだろう。集団は個人を追い詰め、苦しめる。その苦しみをどう避ければいいのか。どうやって「個人の自由」を守ればいいのか。苦しみのもとである交換関係によってできた徒党を解体し無ければ、「個人の自由」は実現しない。政治とはその装置だ、というのが、木庭が古代ギリシャ・ローマから見い出した洞察である。

話を極めて卑近なものに寄せると、現代においても「政治家とヤクザ」は「冠婚葬祭」が大好物である(第1章)。交換関係によって集団を形成する糸口になるからである。故に「選挙法は儀礼に伴う贈与交換を徹底的に禁ずる」(実際、徹底的に禁止できているか不明だが)。政治や法(裁判)において儀礼空間が重要なのは、そのような「利益混入遮断」のための仕切りとして機能するためだ(議会や裁判所が必要な理由)。政治はこうした個人の自由を破壊しかねない徒党を解体する。

現代的な「政治」の理解(利害調整、友敵の設定...etc)とは全く異なった「政治」の可能性を古代ギリシャ・ローマの人々や近代の政治思想家は見ていた。現代社会においても「原初的な部族社会原理」は蔓延っているが、これを解体する「政治」は現代において如何なる「装置」によって可能なのか。

交換échangeを肯定しているのではなく、それが発生する現実、メカニズムを押さえた上で、「最後の一人」の「自由」の実現を目指す、というのが、彼の政治学なのだろう(ただ前回のマキャヴェッリ「マンドラゴーラ」の分析はよく理解できなかったし、女性の交換を「大円団」としているのはいかがなものかと思ったが)。

 

余談。同じく社会人類学の重要概念である、réciprocité(レシプロシテ)についても興味深い指摘があった。通常réciprocitéは「互酬性」と訳されるが、これではだめだと注意を促している。

「réciprocitéはéchangeと不可分であり、「互酬性」という訳語で頻繁に見かけますが、いかにも造語であり、(底なしの関係たるを表現する言葉であるにもかかわらず)この日本語には定まった対価関係のイメージもつきまとう」

故にréciprocitéをそのまま使っていると書いている。お中元を送り合うとか、子供が親の面倒を見るくらいのイメージしか湧かないが、本来レシプロシテとは底なしの関係なのだ。

モンテスキューのようにréciprocitéをクリアに意識し、その土台の上に市民社会を築く、というような考えも現れました。今日、公法を裏打ちするような政治理論の標準版はこの層に遡るとされます。法学とじつに相性が良いということを直感できるでしょう。国家に対して市民の権利をまるで民事法におけるように守るというわけです。とはいえ、18世紀においてこれらは政治理論であり、決して法学にはならなかったということを忘れてはなりません。」

交換と同じように、ここでもレシプロシテをクリアにしたうえでこそ、政治が成立するとしている。

おそらく近年の贈与論の盛り上がりについても、このような木庭の指摘を無視することはできないだろう。