ローラ・ポイトラス『美と殺戮のすべて』

『美と殺戮のすべて』 

サービスデーだったので有楽町でローラ・ポイトラス『美と殺戮のすべて』(2022)を見てきた。

ナン・ゴールディンには、荒木経惟的な「私写真」のひとという雑なイメージしか持っておらず、ほとんど興味がなかったのだが(どちらかというと同時代の写真家ではティルマンスに関心があった)*1オピオイド危機の最中、抗議活動を展開したということを知り、アート・アクティヴィズムへの関心から映画を見た。

※下記ネタバレあり。注意※

冒頭に描かれるのは2018年のNYのメトロポリタン美術館での「ダイ・イン」。ゴールディンらが結成した支援団体P.A.I.N.(Prescription Addiction Intervention Now)の活動仲間と一緒に、「オキシコンチン」という鎮痛剤のラベルが貼られた薬品容器を、美術館内に撒き散し、「サックラー一族は人殺し」という掛け声が始まる。

オキシコンチン」とはオピオイド鎮痛剤の一種。依存性が高く、合法的な麻薬とも言われ、全米で過去20年間で50万人を殺害した。ゴールディン自身も14年に手術をした後に投与され依存症に陥った。サックラー一族とは、オキシコンチンを製造する製薬会社パーデュー・ファーマーの創業家であり、同時に、美術館や大学への大口寄付者である。ゴールディンらは美術界を支える巨大資本家に立ち向かう。

映画を見る前から「オピオイド危機」のことはなんとなく知っていた。ネットフリックスでドキュメンタリーがあるらしく、それを見た友人からいかに製薬会社が横暴で、被害が凄惨かを聞いていた。実際に支援団体(互助団体)に参加する家族がオピオイド依存症になった子供の死を語る様子を映像で見ると、なぜこのような不正義がまかり通っていたか、と憤慨する。

映画は4年に及ぶ抗議活動の様子を映しながら、同時にゴールディン自身の人生を振り返るという構成をとっている。ゴールディンが、「物語は都合の悪い事実を覆い隠す」と言うように、それはあくまで現時点の彼女らによる回想ではある。だが、「生き延びることはアートだった」と語るように、彼女の人生と作品を辿ることは、ドラァグクイーン・コミュニティの(ジョン・ウォーターズが出てきた!)、レズビアン分離主義者たちの、ドメスティック・バイオレンスの被害者たちの、そしてエイズ患者たちの歴史を辿ることでもある。ナン・ゴールディン自身の「私写真」は、私的であると同時に、ポリティカルなものであることに、私は気づいていなかった。

「私の作品はすべて、自殺、精神病(※「精神疾患」だと思う)、ジェンダーなどスティグマをテーマにしています。私の最初期の作品は、70年代初頭にボストンやドラァグクイーンを撮影したものでしたが、80年代まで、自分の作品が政治的なものだとは認識していませんでした。私が5年間バーテンダーをしていたバーを経営していたマギー・スミス、彼女こそが仕事とは政治的であることだと気づかさせてくれました」(パンフレットより)

仕事とは政治的であること。マギー・スミスとは、セックスワーカーの自立支援としてバーを経営していた人物。ゴールディン自身も一時期、売春をしていたと語っていたことに驚いた。初めて明かしたという*2

ともかくゴールディンが語る歴史の細部が面白いのだが(エイズ危機の最中のアーティストらによる抗議活動「アクトアップ」についてもっと知りたくなった。オピオイドへの抗議活動も「ダイ・イン」など同活動を参照している)、これは実際に見てもらうしかない。

映画の背骨となるのが、ゴールディンと仲の良かった姉の死である。姉はたびたび父母と喧嘩し、精神疾患を患い、児童養護施設や病院をたらい回しにされた挙句、自殺する。姉が書き残したメモにはコンラッド『闇の奥』の一節が記されていた。

「人生とはおかしなものであり、無慈悲な必然性に基づいている。自分ことを深く知り得たとしても、大抵は手遅れで、悔やみきれない後悔が残るだけだ」

"Droll thing life is—that mysterious arrangement of merciless logic for a futile purpose. The most you can hope from it is some knowledge of yourself—that comes too late—a crop of unextinguishable regrets."

手元にある光文社古典新訳文庫の黒原敏行訳だとこうなる。

「人生とはおかしなものだーー虚しい目的のために、情け容赦ない筋道が、どういう具合にか用意される。人生に期待できるのは、せいぜい自分について何事かを悟れると言うことだけだが、それは常に遅ればせな悟りであって、つまりは悔みきれない後悔を得ることでしかない。」(173頁)

このマーロウの言葉は、クルツの死の直後に置かれている。

映画ではゴールディンが撮った映像がインサートされる。その中で(無慈悲にも!)母が読み上げるのだが、"that comes too late"の手前で声が詰まってしまう。この映画を見ると、ゴールディンは自身の「情け容赦ない筋道」を引き受けることが同時に、オピオイド危機という巨悪に立ち向かうエネルギーとなっていることが窺えた。

肝心の抗議活動についてだが、当初、美術館は冷ややかだったが、ナン・ゴールディンの2018年のアートフォーラム誌でのエッセイや、P.A.I.N.の活動によってテートやルーブルなどが将棋倒しに、サックラー家の寄付を断り、美術館から名前もおろすことに成功する。*3

細かいところで気になったこと。ゴールディンが「政府も司法省も何もしてくれなかったが、倒産裁判所だけが手を差し伸ばしてくれた」と語っていたが、なぜそう言うことになるのか、専門家の解説を聞きたいと思った。

ともあれ、ナン・ゴールディンというアーティストへの関心が高まり、またアートとアクティヴィズムについてなど思考が刺激される、なかなか面白い映画だった(本当は「アーティストである前に一人の人間として」というパンフレットにある一節への違和感、「市民とは誰か」ということについて書きたかったのだが)。

*1:浅田彰が何かのシンポジウムで、ナン・ゴールディンと荒木経惟の差異について語っていて感心した記憶があるが、どの本だったか。ナディッフで立ち読みした小さい赤い本に入っていた気がするが思い出せない。

*2:先日参加した『アートワーカーズ』の刊行記念シンポジウムで、ジュリア・ブライアン=ウィルソン氏が、アーティストとして生計を立てている人はほんの一握りであり、セックスワークに従事するアーティストもいること、スティグマを解体することが必要であること、売春が女性化されていることについて話し問題提起をしていたことを思い出した。まさに仕事はポリティカルであること、である。

*3:この様子は痛快でもあるが、同時に国立西洋美術館での抗議活動のことも想起せざるを得なかった。オピオイド危機の場合は、巨大資本とはいえ標的が定かなものだった(「悪魔化」という言葉さえ過ぎったが、運動という点では仕方ないし、実際やっていることを考えれば当然である)。川崎重工イスラエルへの武器提供をやめたとして(それは必要なことである)、おそらく代わりに別の国の別の企業が武器を提供することになる。戦争を続けるイスラエルへの抗議にしても(それは必要なことである)、「停戦」したとして、植民地構造に手がつかなければ、同じ悲劇は繰り返されるだろう。一昨年のドクメンタ15を引き合いに出すまでもなく(今もジュディス・バトラーやナンシー・フレイザーが、イスラエルを批判したかどで社会的な非難を浴びている)、一方的な「圧力」は止まない。オピオイド危機は一企業の問題だったが、今回はイスラエルとそれを支える国際社会、ひいては資本主義に内在する暴力という、アートワールドも密接に関わる、より大きなシステムを背景に持つ。システムに対抗する運動は可能なのだろうか。