ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」

ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」(斉藤綾子訳、1975、『新映画理論集成1歴史/人種/ジェンダー』所収)を読んだ。*1

エリザベス・ライトが批判していたので、ちゃんと読んでみようと思って手に取ったのだが、近年の表象批判の起源の一つでもあり、面白く読んだ。

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訳者である斉藤綾子の解説から引用する。

「本論文の重要性は、まず第一に、それまで社会・政治運動として考えられていたフェミニズムに、ある一種の批評言語を与え美学的な接点を作り出した点による。第二にに、マルヴィがハリウッド古典映画で示した図式によって、それまで現象として捉えられていた「女性の身体」の見せ物化に、過程(プロセス)として分析した方法論を与えたということである。」

「「視覚的快楽」は映画研究者あるいはシネフィル的視点からフェミニズムを捉えた論文である」

斉藤によれば、フェミニスト映画理論の歴史において「視覚的快楽」が画期的だったのは、精神分析モデル、セクシュアリティの理論の導入により、主流映画において「見る人=男、見られる人=女」という図式が、「父系社会のイデオロギーによる映画の言語規則(コード)」として映画スタイルと物語構造に無意識的に組み込まれていることを明らかにした点にある。「良くも悪くもフェミニスト映画理論の基本となったが同時に大きな反発も現われた」と振り返っている。

マルヴィは見るという行為の無意識に潜む性差別を抉り出す。「見る人=男、見られる人=女」という図式は、映画に限らず、現代の表象分析においても応用され、例えば広告においてしばしばこの図式が反復され、「性的対象化」あるいは(マルヴィは使っていない用語だが)「モノ化」という批判がなされている。マルヴィの論文自体はそれほど読まれることなく、「規範的(ノーマル)な快楽の期待を壊す」ツールとして無意識裡に応用され、いわば大衆化していると言ってもいいだろう。下記の一節など、どこかで読んだことがあると感じる人は多いだろう(無論、今も問題的であるということだが)。

「性的な不均衡に規制された世界においては、見るという行為の快楽は能動的=男性、受動的=女性に分割されている。決定的要因をもつ男性の視線(ゲイズ)はその幻想を女性の姿に投影するが、うまくできたもので女性の姿はその視線に見合うようなスタイルをとる。伝統的に顕示的な役割をもつ女性は見られると同時に呈示(ディスプレイ)される。このために女性の外観は、「見られるため」ということを暗示するように、視覚的で性愛的な強度の衝撃をもつような形に規則(コード)化されている。性的対象として呈示された女性は性愛的見世物(エロティック・スペクタクル)のライトモチーフ的存在だ。ピンナップ写真からストリップ・ショー、ジーグフェルド・レビューからバスビー・バークレーに至るまで、女性は(観客の)視線を捉え、男性の欲望を意味し、それに向けて演じる。」

実際に読んでみると「視覚的快楽」の試論的な性格がわかる。章構成は下記の通りだ。

Ⅰ 序文

 (a)精神分析を政治的に使うこと

 (b)快楽の破壊をラディカルな武器とすること

Ⅱ 見るということの快楽/人間の姿(フォーム)に対する魅惑

 A(※節タイトルなし:映画の喜びとしての視覚快楽嗜好)

 B(※節タイトルなし:映画の魅惑としての、映像に対する自己同一化)

 C(※節タイトルなし:AとBという矛盾する側面のフロイト的な総合)

Ⅲ映像(イメージ)としての女性、視線の担い手としての男性

 A(※節タイトルなし:見るという行為における男女の分割)

 B(※節タイトルなし:異性愛における能動/受動という労働分割と物語構造)

 C1(※節タイトルなし:ⅢAとBの総合。どちらも視線に関係している)

 C2(※節タイトルなし:スタンバーグ(呪物崇拝)とヒッチコック(窃視狂的側面)における視線の体制)

Ⅳ 要約 

以上のように、やや不思議な構成をとっている。試論的なメモを並べて、構成し、その論理的な穴を補うかのように、最後に「要約」までつけている。

 

エリザベス・ライトはマルヴィにおける「視線」(サルトル)と「まなざし」(ラカン)の混同、「鏡」と「スクリーン」の取り違えを批判していて、それは正しいと思ったが、試論的な性格と下記のラカン受容事情を考えるといささか無茶な要求だろう。

ラカンの論文は明示されていないが、鏡像段階論を持ち出しているほか、フロイトの「本能とその運命」を参照している。マルヴィは『四基本概念』のセミネールは参照していないので(英訳刊行年がいつかは知らない)、ラカンの「まなざし」論を意識しているわけではない。

気になったのが、やはり去勢コンプレックスとファルスである(またしても!)。これはマルヴィの「見る人=男、見られる人=女」という図式の根幹に関わっている。

「女性の欠如(すなわち女性にはペニスが欠如していること)こそが象徴的な存在としての男根(ファルス)を産み出し、そして女性の欲望こそが、男根が記号表現するものとしての欠如を補うものに他ならない」(Ⅰ-A)

「女性は去勢との関係においてのみ存在し、決してそれを超越することができないという点で、女性の欲望は(去勢の)出血する傷の担い手として映像(イメージ)に従属している。」(Ⅰ-A)

「女性の形象(フィギュア)はもっと根深い問題を提起する。すなわり女性は、この男性の視線が常に舞い戻りながらも否認する何かを暗示的に含むものであるからだ。それは彼女の男根(ペニス)の欠如が去勢脅威を呼びおこし、不快を生んでしまうということである。つまるところ、女性の意味は性差であり、視覚的に訴える男根の不在である。」(Ⅲ- C1)

「男性の無意識はこの去勢不安から逃れるために二つの道をとる。一つは女性をおとしめ、有罪者として罰するなり救うなりすることで埋め合わせを図りながらも、最初の外傷の再演に専念すること(略)さもなければ、去勢そのものを完全に否認してしまうことだ。これは呪物崇拝(フェティッシュ)の代用によるか、または表象された形象(フィギュア)そのものを呪物化してしまうかによって成し遂げられるが、こうして女性の形象が脅威的なものから安心感を与えるようなものに変わる(略)。」(Ⅲ- C1)

「表象における女性は去勢を記号表現し、結果としてこの脅威を巧みにかわすため、窃視狂的、もしくは呪物崇拝的機構を活性化する。」(Ⅳ)

「去勢を思い起こす脅威となる女性の映像(イメージ)は、常に物語世界の統一性を危険に晒し、でしゃばりで動かない一次元的なフェティッシュとして錯覚的幻想(イリュージョン)世界を突き破っていく。」(Ⅳ)

マルヴィの「視覚的快楽」においては、映画の中の女性の形象はファルスの欠如を表現し、見るのもの(男性観客を想定)の去勢不安を引き起こす。去勢不安への対策として、「外傷の再演」もしくは、否認としてのフェティシズムへと至る。見られるものとしての女性と、見るものとしての男性という図式の根底には、性差を生み出す去勢コンプレックスが存在している。

そもそも去勢コンプレックスとはなんだろうか。ラプランシュ/ポンタリスの『精神分析用語辞典』を参照しよう。

「去勢の幻想を中心とするコンプレックス。これは子供が性の解剖学的相違(ペニスの存在と不在)についてもつ疑問への答えとして生じる。この相違は子供の考えでは、女性ではペニスが切り取られたものだとされる。

去勢コンプレックスの構造と効果は男児と女児では異なる。男児では去勢を、彼の性的活動にたいする父親の脅迫が実現するものとして恐れる。そこから去勢への強い不安が生じる。女児では男根のないことを不公平だと思い、これを否定し、代償し、または修復しようとする。

去勢コンプレックスはエディプス・コンプレックス、ことにその禁止的、規範的機能と深い関係がある。」(「去勢コンプレックス」の項)

いきなり余談に逸れるが、精神分析の理論を学ぶ上で障害となるのが、エディプス・コンプレックスをはじめとする上のような「お話」(「仮説」とも「神話」とも言える)を受け入れるかどうか、という点である。私もフロイトに出会った時には、「ほんまかいな」とまともに読む気がしなかったが、ラカンのようにフロイトを「出来事」として受け止め(ニコラ・フルリー『現実界に向かって』)、テクストの解釈を通じて、臨床的な理論を構築する議論を読み、とりあえず受け入れてみることにした。一定の留保というか我慢をして読むことになるわけだが、実際フロイトのテクストを読むと、ラカンよりも文章としての魅力があり仮定に仮定を重ねる思考の力強さに驚き、ハロルド・ブルームが「ウエスタン・キャノン」の一つとして選んだだけのものだという印象だった。

去勢コンプレックスに戻ろう。フロイトが去勢コンプレックスを発見したのは、症例ハンス少年を通じてだった。公刊されたのが1908年の「幼児期の性理論」。

去勢幻想はさまざまな象徴の形で出現する。

「脅迫された対象は移動し(エディプス王にみられるように盲目になること、抜歯など)、その行為は歪曲され、肉体への他の損傷に移され(事故、梅毒、外科手術など)、時には精神的損傷ともなる(手淫の結果としての狂気)。父親の代理者はさまざまな形で現れる(恐怖症者の恐怖の対象となる動物など)。去勢コンプレックスは広範囲に臨床的症状の中にも認められる。」

ここだけ読むと意味不明かもしれないが、フロイトの五大症例を読むと、理論的後付を理解することができる(例えば「恐怖症者の恐怖の対象となる動物」はハンス少年にとっての馬である)。

エディプス・コンプレックスとの関係においては、去勢コンプレックスは男児と女児では異なった位置を占めている。

「女児の場合は、それは父の男根にたいする欲望に導き、かくしてエディプスへの出発点となる。男児では、それはエディプスの集結期の危機であり、子供に母性的対象を禁止するためにあらわれる。去勢不安は男児にとっては潜伏期の幕開けとなり、超自我の形成をうながす。」

男根ことファルスの項目も見よう。

「去勢コンプレックスの理論がまた、男性性器に決定的な役割を与えている。それは象徴としてのことであって(略)各主体にとって、このあるかないかということは自明のことではなく、一つの単純な与件に帰せられるものでもなく、主体内および主体間の家庭の、問題をはらんだ帰結(主体が自分自身の性を自分のものとして引き受けること)であるという意味で象徴なのである。」

主体が自分自身の性を自分のものとして引き受けること。ファルスへの関係の仕方、位置によって、性が決定される(ただし、フロイトラカンの理論基本的に「事後性」の論理なので、臨床的現実を説明するためにある。ある星座のかたちは与えられている星の位置によって決まり、選ぶことができるわけではない)。

果たしてマルヴィーが言うように映画の中の女性のイメージが男性観客に対し去勢不安を引き起こすかはよくわからないのだが(マルヴィーが参照した50年代ラカンにおいては去勢コンプレックスは母的存在との関係で生じ、「疎外と分離」を経て解決されるはず。想像的ファルスから象徴的ファルスへの置換。映画体験は鏡像段階的なナルシシズムの体験と言えるかどうか。むしろ夢=無意識に似ているだろう*2 )、70年代のアメリカにおいて、ラカンの理論の十分な紹介がなされていないにもかかわらず、「性差」を説明する理論として大きく期待されていたことがわかる。次は(いつできるか不明だが)ラカンが「ファルスの意味作用」での議論を辿りたい。あるいはフロイトの五大症例からラカンの思索を考えるのも面白いかもしれない。

*1:いまいちちゃんと感想を書けている感じがしないが、暫定的読書メモなので公開する。

*2:とはいえ、当たり前だが、マルヴィーの理論が無駄というわけではない。斉藤はマルヴィーの理論とシャンタル・アケルマンやデュラスらの映画との同時代性を指摘する。『新映画理論集成』に収められたテレサ・ド・ローテレティスの註にアケルマンのインタビューが引用されている。「(※『ジャンヌ・ディエルマン』について)ショット一つ一つに確信を持っていました。カメラをどこに置き、また、いつ、そしてなぜかということに関しても完全に理解していました。(略)普通の商業映画のようにカメラは覗き趣味ではありません。というのは、観客は作り手としての私がどこにいるかをはっきり判っているからです。(略)女性をショットでバラバラにしてしまうことやアクションを細切れにしてしまうことを避けるために、また注意深く見守り、敬意を示すためには、私の選んだ撮影の仕方以外の方法はなかったと思います。」おそらくマルヴィーとアケルマンは同じ敵を直感していたのではないか。「視覚的快楽」はその同じ敵を批判するための試論である。