木庭顕『ローマ法案内』その2

木庭顕『ローマ法案内』からの引用。「カルト集団の政治浸透について : 若干の問題整理」(『法律時報』2022年11月)を読む上で役立ちそうなところ。

 

「以上のように、都市は神々という概念を巧妙に使って実現された。この点はしばしば、ギリシャ・ローマの社会が「国家宗教」体制を有するというように解されてきた。都市の物的装置ばかりか、政治システムの手続を区切る儀礼にも神々の概念は多用されたからである。しかしギリシャ・ローマの社会は、むしろ政治が宗教を完全に制圧した状態にある、と言った方が正解である。政治的決定は決して宗教的権威に服することはない。政教分離は徹底された。しかしだからといって宗教の存在を否定するということはない。そもそもそれは単に野放しを意味するであろう。政治システムが大きな穴を抱えることを意味する。とりわけ宗教が不透明な集団や再分配作用を媒介したとき、政治システムを破壊する権力が現れたことになる。だからこそ、基幹の神々の概念は、神々を特殊で具体的なテリトリーに立たせることによって中和される。神々はまるで人々のように自由なヴァリエーション対立を特徴とする様々な話の登場人物となる。肉体を持たされ、恋愛に耽る。文学化される、と言ってよい。ローマではこの文学科の度合いが少なく(したがって「ギリシャ神話」はあっても「ローマ神話」は厳密には無く)、神々はもっぱら儀礼の中にしか登場しない。人々は儀礼の中でだけ神々を思い浮かべ、それ以外では神々を意識しない。ギリシャでもローマでも信仰の概念は存在しない。初めから議論の前提をなす批判の対象たるを免れない。他方、このように政治システムと関連付けられた神々以外の神々を観念することは、それが私的なものであれば全く自由である。つまり政治システムを形作っている観念体系を侵食しさえしなければ自由である。侵食すれば、それは自由を破壊していると捉えられる。何故ならば、都市中心の物的装置実現に寄与している観念体系は、公共空間の実現を通じて自由を保障するのに貢献しているばかりか、宗教的権威を解体するデヴァイスでもあるからである。」(42頁)