ゲイル・ルービン「女たちによる交通」

「実際、彼は書かなかったか? 権力と女たちの所有、余暇と女たちの楽しみを? 彼は書いている。お前は通貨だと。交換の項目だと。彼は書いている。物々交換、物々交換、女たちと商品の所有と獲得。誰でも手に入れることができる生を生きるより、お前はお魔の根性を陽のもとで見、死に際の喉鳴りを呻いた方が良い。この地上でお前に属しているもの、それは何か? ただ死だけである。地上のいかなる権力もお前から死を取り去ることはできない。そしてーーお前自身を考え、説明し、言ってみよーーもし幸福が何かを所有することになるとすれば、この主観的な幸福ーー死ぬことを握って離すな」(モニカ・ウィティグ「(女)ゲリラたち」1973)*1

ゲイル・ルービン「女たちによる交通 性の「政治経済学」についてのノート」(長原豊訳、現代思想2000年2月号)を読んだ。

本論文は「合衆国におけるラディカル・フェミニズムの理論的深化を代表する」論文の一つとされ(岡野八代『ケアの倫理』)、1975年に公刊された。

ルービンは文化人類学者で、マルクスエンゲルスレヴィ=ストロースフロイトラカンの批判的「解説」を通して、親族システムやエディプス概念が性の分割を必要としていることや強制的異性愛、性差別を内在していることを暴き、性/ジェンダー体制の政治経済学を試みた。

岡野による要約を参照しよう。

「ルービンは、「女たちによる交通」によって社会を構造化する原理としての性/ジェンダー・システムを見いだし、現代的な性別分業は近親婚タブーのように、異性愛的な婚姻以外の性的配置を許さないための規範として機能していると考えた。労働の性別分業は、男らしさ・女らしさといったジェンダーを創出するだけでなく、異性愛も創出している。同性愛が社会的に抑圧されるのは、女性たちを従属的な分業体制のなかに縛りつけ、彼女たちを抑圧する同じシステムによる作用の一つに他ならない。」(『ケアの倫理』)

ルービンはレヴィ=ストロース「女の交換」を軸にした親族理論を批判する。レヴィ=ストロースは未開社会における互酬性の理論に、婚姻が贈与交換の最も基礎的な形態であるという考え方を付け加えた。鍵となるのが近親婚の禁忌である。それによって、家族間そして集団間による「女の交換」が可能になる。集団内部における結合を禁止することによって集団間の婚姻的交換を強制する。

「女たちが取引されている当のものであるとすれば、結び付けられているのものは彼女たちをやり取りしている当の男たちであり、女たちは男たちのパートナーというよりはむしろそうした関係の道管である。」

「「女たちの交換」は魅力的で力強い概念である。それは、生物学と言うよりはむしろ社会システムに女たちの抑圧を位置づけるという意味で魅力的である。またさらにそれは私たちが商品による交通というよりはむしろ女たちによる交通の内部に女たちの抑圧の究極的な場を探し出すことを示唆している。」

「「女たちの交換」はまた問題含みの概念でもある。レヴィ=ストロースは近親婚の禁忌と応用の帰結が文化の起源を構成すると論じているからこそ、女たちの世界史的な敗北が文化の起源とともに起き、文化の必要条件であることを導き出すことができる。彼の分析がその純粋な形態において選びとられるとすれば、フェミニストの綱領は男たちの根絶に較べてより厄介とさえなる課題を含んでいなければならないことになる。それは文化を取り除き、それに代えて大地の表面における全く新たな現象をもってくる試みでなければならないことになる。」

ルービンはレヴィ=ストロースの親族理論の帰結として、「近親婚の禁忌、強制された異性愛、そして性の非対称性」を導き出す。

続いて、ルービンは精神分析を「親族関係の再生産についての理論」とし、「諸社会のセクシュアリティ規則や諸統制と諸個人が対峙することによって諸個人内部に残留した残余」を描き出す。

フロイトは生物学決定主義ではない。フロイトセクシュアリティを生物学的発達ではなく、心的な発達に原因を持つとし、その中核にエディプス・コンプレクスを置いた。そして、ラカンレヴィ=ストロースの人類学の影響をうけ、フロイトを読み直し、エディプス・コンプレクスをより洗練された理論に発展させた*2

ラカンは去勢コンプレクスの理論において、「ファルス」という概念を導入した。実体的なペニスではなく、「それぞれの主体にとっての現前あるいは不在」を扱う記号としてのファルス。去勢とはファルスを持っていないことである。ルービンは、「去勢は本当の意味での「欠如」ではなく、女性器に授けられた意味」であるとし、ファルスは「去勢されていること」と「去勢されていないこと」とを差異化する示唆的な特徴であるとする。つまり、男と女という二つの性的地位の差異を指し示すのである。(余談だが、ここは今振り返ると、若干怪しい。男性主体もまた去勢されているからである。ラカンにおいては、男女はファルスを持つもの、ファルスであるものに分けられ、のちに「性別化の式」で形式化される。とはいえ、ファルスへの関係の仕方によって、性的地位の差異が示されていることは変わらない。)

「ある意味で、エディプス・コンプレクスは、家族内の交換におけるファルスの流通(循環)に与えられた表現であり、家族間の交換における女たちの流通(循環)の反転である。エディプス・コンプレクスによって明らかにされる交通循環では、ファルスはある男から他の男への、すなわち父から息子への、母の兄妹から姉妹の息子への、などの媒体を介して流通する。この家族クラの環では、女たちは一方向へ、ファルスが他方向へ動いている。私たちが私たちでないのはこうした場である。この意味で、ファルスは男女を区別する特徴以上の意味をもっている。それは男性の地位の具体化であり、男たちはそれに加わり、そこにある種の権利ーーとくに女への権利が付与されるのである。それは女たちを介して流通(循環)し、男たちに権利を与えるのである。それが残す痕跡は、ジェンダーアイデンティティ、性の分離を内包している。」

興味深いのが、女性におけるエディプス危機についての分析で、フロイトやランプル・デ=ホローとの定式、そしてそれに対するカレン・ホーニーの批判を参照し、少女の母への愛についての分析、女性性についての精神分析理論を展開するところであるが、割愛する。

「女性性についてのフロイトの理論は、その公表以来、フェミニストからの批判に曝されてきた。それが女性の従属を合理化するかぎり、この批判は正当である。しかしそれが女たちの従属過程についての叙述であるかぎり、批判は誤っている。ファリックな文化が女たちをどのように馴致するのかについての記述、女たちの馴致が及ぼす彼女たちへの諸効果についての記述として、精神分析理論は比類なき理論である。」

ルービンは精神分析を捨て去ってしまうのは「ジェンダー的な位階(あるいはジェンダーそれ自体)を根絶するための政治運動にとっては自殺的」とまで言う。人間社会におけるセクシュアリティの理論は、おそらく今のところ、精神分析しか存在しないからだ(「精神分析は失敗したフェミニスト理論である」)。

ルービンにとって、レヴィ=ストロースの親族理論もフロイト精神分析理論も、そのセクシズムにもかかわらず、性/ジェンダー体制の分析理論として高く評価されている。それは性/ジェンダー体制の現実を分析し、記述する有効な論理だからである。いかにフェミニズムの議論が浸透しようとも(すべきである)、いまも「女の交換」はそこやここで生じている。そのグロテスクな論理を辿るために彼らの理論はいまも有効だと思う*3

現代において、親族関係は「以前それらが有していた機能的な重要性を失っている」。親族関係は国家のない社会において、政治であり、経済であり、教育であり、組織だった。しかし、現在では国家をはじめとする諸機能へと分散している、だが、「その最も赤裸な骨格」に切り詰められることで、「性とジェンダー」として姿を露わにしている。

ルービンは「フェミニストの運動は女たちの抑圧の根絶以上の何ものかさえ夢見なければならないと考えている」と言う。強制的なセクシュアリティと性的役割の根絶。女たちでなけれならない、あるいは男たちでなければならない、ということによって抑圧されない社会を夢見る。そのためには「親族関係」の革命が必要とされる。*4

「労働の性的分割が成人男女が同等に育児を行うような分割であれば、第一次的な選択はバイセクシャルとなるだろう。異性愛が強制的でな(け)れば、この初期的な愛は抑圧される必要がないだろうし、ペニスが過大評価されることもないだろう。性的な所有システムが、男たちが女たちへの権利を濫用することがないように再組織化しなければ(もし女たちの交換が存在しなければ)、またジェンダーが存在しなければ、エディプス・ドラマ全体は遺物となってしまうだろう。約めて言えば、フェミニズムは親族関係における革命を目指さなければならないのである。」

*1:「女たちによる交通」注12で引用されている

*2:ルービンが参照している論文は「The Function of Language in Psychoanalysis」1968とあるので、「ローマ講演」論文のことだろう。

*3:木庭顕の交換への視点にフェミニズムは存在しないと思うが、常にすでに生じている交換による害悪は認識されており(別方向からの人間の尊厳への洞察がある)、その理論的認識はフェミニズムにも貢献し得るものだと思われる。

*4:バトラーは『ジェンダー・トラブル』においてルービンを取り上げている。「たしかにルービンは、オルタナティヴな性の世界を心に描いており、それは、幼児の発達段階におけるユートピア的な期間ーー法の死あるいは分散の「あとに」ふたたび出現するはずの法の「まえ」の世界ーーである。しかしそういった「まえ」を想定し言及することの正当性を批判したフーコーデリダの主張をわたしたちが受け入れた後で、ジェンダー獲得のこの物語は、どのように修正していけばよいのか。」(142頁)「 《象徴界》に「外部」と言われ、攪乱地点としてはたらく両性愛は、実際のところ、言説によって「外部」として構築されているものにすぎない。」(145頁)。ルービンは法の「まえ」を夢想しているのではなく、親族関係の革命を夢見ている。クリステヴァのような議論とは異なる。バトラー理解が不十分なので、なんともわからないが、現時点での理解を記しておく。