津田道子《生活の条件》《カメラさん、こんにちは》(2024)

東京都現代美術館で「Tokyo Contemporary Art Award 2022-2024 受賞記念展」をみてきた。サエボーグと津田道子の展示である。

どちらも興味深くみたのだが、津田道子の展示は四つの作品からなり、とくに《生活の条件》(2024)と《カメラさん、こんにちは》(2024)が面白かったのでメモしておきたい。

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人間は認識する上で、何かしらのフレームを不可欠とする。時間と空間という形式はフレームの一種だが、そこまで根本的なものではなくても、だれが人間か、だれが家族か、なにが映画か、なにが絵画か、なにがファインアートか……人間は常にこうしたフレームを携えている。フレームなしには世界は混沌としたままで、認識や行動は不可能となる。

フレーム内にふさわしい人間や事物は選別される(商業映画やInstagramを考えてみよう)。フレームは美学の問題であり、同時に政治の問題である。

絵画の歴史のなかで絵画を窓というフレームという形象を託されてきた。それはここではないどこかを示すと同時に外を封鎖し見るものを内部に閉じ込める装置であった(絵画はしばしば対象を美化する。美しい絵画は外にある現実を覆い隠す)。

現代美術ではしばしばそのフレームを問い直す作品がある。フレームをずらす、ひっくり返す、裏側から見る、フレームに似た何かを作る……キャンバスや映像といったさまざまなメディウムやモチーフがフレームとして選択され、さまざまな方法を通して、フレームは問い直されてきた。

要約してしまえば、津田の作品もそうした現代美術の歴史に連なる作品である。

だが、フレームを問い直すやり方、人間の認識に不可避に生じるフレームの外を示す身振りが独特で面白い。

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《生活の条件》の作品解説を一部、引用する。

「部屋には8つの枠が設置されていて、それぞれ鏡が入っているもの、スクリーンになっているもの、何も入っていないものがある。スクリーンには、出演者がなんらかの仕草を行う映像が現れては消える。それは、家事や食事の際などの、家の中でのちょっとした所作である。《カメラさん、こんにちは》に現れる仕草から簡素化した動き、忙しく動き回る、歩き去る、正面を向いて立つ、横長のスクリーンには、時々眠る人などが現れる。(後略)」

照明の落とされた部屋に8つの枠(=フレーム)が設置されている。注目すべきはフレーム同士の関係である。

例えば三つのスクリーンがある。二つは隣に並べられており(手前にあるのをAと奥にあるのをBとしよう)、その真ん中に敷居のように直角に一枚設置されている(これをCとする)。Aには女性のある身振りが記録された映像が投影されている。直角に設置されたCは鏡でそれが反映される。Aの側から見ると鏡の中ではちょうどBの位置に、Aの反転した身振りが生じているように見える。ところが、観者がCの側に行くとBは空のフレームであることがわかる。Aの側に戻って確認すると、それでもBでも同じ動作が再生されているように感じる。もちろんBの側に行けばそれは錯覚で、単なるフレームがあるだけだ。

これはあくまで整理した記述である。作品体験としては、まずAの映像が飛び込み、どうやらCが鏡であることがわかり、Bが空洞であることがわかる。もし仮にAに映像があり、Cは空洞で、Bに反転した映像を流すことでも、同一の経験が成立する。AとBとCは可変的で、おそらく他のバリエーションも成立するだろう。

フレームにはスクリーン、鏡、窓の三種類がある(映像の写っていない状態のスクリーンをカウントすれば四種類)。この三種類のフレームの組み合わせから、私たちの経験の条件(生活の条件=Life Condition)、つまり経験を支える見えないフレームを探っている試みとも言える。認知心理学の実験のようにも感じた。

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次に《カメラさん、こんにちは》。この作品は大変面白かった。

まず目に飛び込むのは、入り口から右手にある11枚の写真である。さまざまな家庭をうつした写真かと思いきや、ダイニングテーブルに座る母と父と娘という関係は維持されたまま、男性が母を演じていたり、娘が成人女性や成人男性だったり、白人女性や高齢女性が母を演じていたりするが、みな同じようなポジション、ポーズを取っている。

部屋の中央には写真に写っているのと同じダイニングを模した部屋が設置されている。人は座っていない。カメラと家具だけが存在していて、正面の壁には映像が投影されている。映像を眺めると、ホームビデオを買った家族の初めての撮影らしい。

奥には11台のモニターが並んでいて、それには中央の模した部屋を挟んで、対向する写真の家族の映像が流れている。それら全てが同一の家族であることがわかる。ただジェンダーや国籍や年齢の組み合わせが替わっているのだ。

本作についても解説文を一部引用しよう。

「11台並ぶモニターと、簡素化したダイニングルームのような仮設の部屋。それぞのモニターに映る人の人物は1人ずつ役を入れ替えながら、11画面全てが同じ出来事を演じている。この映像は、36年前(198年)に津田の自宅に初めてビデオカメラが来た日に撮影された5分程度の出来事を再演したものである。カメラのテストのように食卓に向けて三脚に設置されたカメラが撮影した映像には、家族に新しいメンバーを受け入れようとするような仕草が映っている。食卓での会話の中で、フレームの中心を家族の中心と準えて、フレーミングの取り合いをしている。(後略)」

映像の中で娘、父、母はフレームの取り合いをする。

隣の部屋にはシングルチャンネル版の映像作品も投影されている。これを見るとわかりやすい。面白いのが、カットが変わるごとに演じる人間が変わることだ。先ほど言ったようにジェンダーや国籍や年齢の組み合わせが替わっているという違和感を残しつつも、それでも「ホームビデオ」として成立している。奇妙な体験だった。再び解説文を引く。

「シングル・チャンネルで上映されている映像では、同じスクリプトを12名の俳優が入れ替わり演じている。12の組み合わせで演じられることで、家族や社会を構成することの思い込みにひびが入っていく。」

家族のメンバーについて、まるでベケットの小説を思わせるような順列組み合わせを施すことで、家族とは関係のあり方の一つであり、それぞれの関係項に何が代入されても成立してしまうことを証し立てる。

「ホームビデオの映像を改めて見たときに、この映像が先にあって、私の人生はその後に遅れてやってきたものだと考えてみよう、と思いました。また映像の技術としてディレイというものがあり、その言葉をLifeとつなげてみた。このタイトルにした意味を、後から考えてみようという思いもある」(津田道子*1

本作はホームビデオという装置を利用して、家族というフレームを問い直す作品と言える。実際解説文でも「思い込み」=フレームを問い直す作品であるとされている。

しかし、それに加えて、同時に家族というフレームが不可避に生じることも描いているのではないか。

津田自身が語る「この映像が先にあって、私の人生はその後に遅れてやってきた」という言葉を真に受けて考えるべきである。

イマージュが先行して存在し、事後的に「私」が生成する*2。なぜ私はこの家族に生まれてきたのか。その組み合わせは無限であるにも関わらず、私が選ぶことはできない。私は必ず何らかの家族=フレームにもとに生まれる。私は常に遅れて到来する。しかも私というフレームも空項であるため、ほかでもあったかもしれない可能性を携えながら。

思えばホームビデオとは奇妙な装置である。撮る対象も見る観客も、基本的に同一の家族を想定している。何のために撮るのかもよくよく考えると曖昧だ。子供が小さい時に撮られる。成長の記録なのか、「思い出づくり」とでもいえばいいのか。通常の映画とは異なり、常に「撮られていること」が意識される(「カメラさん、こんにちは」)。だが、実際に見直されることは少ないことは皆知っている。しかも偶々目にしてしまった時には、写真の引き起こすノスタルジーとは異なる、何ともいえない生々しい強烈な情動を引き起こすことを本作を見ながら思い出した。それは私が、私というフレームが空項であることを思い出させるためなのだろうか。

《生活の条件》では、私たちの経験の条件=フレームを問い、《カメラさん、こんにちは》では家族と私というフレームの不可避性、生成過程を問う。面白い作品だった。しかも無料です。