ラウラ・ルケッティ/チェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』

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イタリア映画祭でラウラ・ルケッティ『美しい夏』(2023)を見てきた。

原作はチェーザレパヴェーゼの同名小説。刊行されたのは1949年だが、第二次大戦中の40年頃に書かれた。当初の題名は『カーテン』だったという。

パヴェーゼの映画化というとストローブ=ユイレの作品が思い浮かぶ。一方ルケッティの『美しい夏』は原作との向き合い方が違う。原作にインスピレーションを得た二次創作といった性格の作品だ。原作にあった群像劇としての側面は後退し、ジーニアとアメーリアの二人の関係により焦点が当られている。

とはいえ、低予算ながらトリノの美しい街並みを生かすことで、1930年代のイタリアを再現することに成功している。映画のバスも良かった。

アメーリアの登場シーンが印象的だった。休みの日に兄セヴェリーノ(原作とは異なり大学に通っているという設定が加えられている)と共に川岸にピクニックへ向かう。すると、ボートから半裸の女性が現れ、「アメーリア!」と声をかけられるとそのまま水の中に飛び込み岸辺まで泳いでくる。アメーリアが戸惑うジーニアに「タバコを貸して」と声をかけるのが、二人の出会いである。

ジーニアは16歳。アメーリアは19歳(〜20歳)。洋裁店で働くジーニアにとってはモデルという魅惑的な職業に就くアメーリアはまだ見ぬ大人の世界の象徴であり憧れ。かつて洋裁店で働いていたというアメーリアにとってはジーニアは過去の自分とも重ね合わされている。

「彼女らは町の中央に向った。ふたりとも帽子をかぶらずに、さわやかな街路から街路を抜け、まず手はじめに、アイスクリームを買って、それをなめながら往き交う人びとを眺めては笑った。アメーリアといっしょにいれば何もかもはるかに容易だった、そして何ごともたいしたことではないかのように心から楽しみを味わえたし、その晩はいろいろなことが起こるような気さえした。もう二十歳になって、平気で当たりを見まわしながら歩けるアメーリアがいっしょだから、ジーニアは安心していられた。」(12頁、河島英昭訳、『集英社版 世界の文学14 パヴェーゼ』)

映画でも「アメーリアといっしょにいれば何もかもはるかに容易だった」という小説の祝祭的な雰囲気はしっかりと再現されていた。ちなみに映画では兄セヴェリーノとアイスをなめるシーンがある。

「アメーリアはホールの入口を見つめていた。「でも一杯ぐらい飲みましょうよ。さあ、いらっしゃい。退屈しているのは、自分のせいなのよ」最初に見かけたカッフェで彼女らはコップ一杯飲んだ。外に出るとすぐに、ジーニアはそれまでにはなかった涼しさを風のなかに感じた、そして夏にアルコールで血を清められるのはすばらしいことだと思った。その間アメーリアは彼女に説明していた。一日じゅう何もしていない人間だって、せめて夜ぐらいは気晴らしをする権利があるはずよ、だけど女の子には、ときどき、流れ去る時間をこわいと思う一瞬が襲ってくるわ、そうなったらもういくら走ったって何の足しになるのかわからなくなってしまう。「あなたにはそういうことない?」「あたしはお勤めに行くときしか走らないわ」とジーニアが言った。「あたしあまり遊んでいないからそこまで考える時間がないの」「あなたは若いから」とアメーリアが言った、「あたしは仕事をしているあいだにも、じっとしていられないときがあるわ」(13頁)

「夏にアルコールで血を清められるのはすばらしい」ことを風の涼しさに感じるという描写がすばらしい。パヴェーゼの中ではそこまで好きな作品でもないのだが(過去に一度読んだが冒頭以外ほとんど記憶になかった)、所々に覗く的確な描写は流石である。ところで映画では、上のような「女の子は〜」と言ったような台詞は採用されていないのが特徴だ。80年前の作品ゆえに現代とは価値観が違う。無論、当時そのような価値観・考えの人がいたから、パヴェーゼは自分の小説に取り入れたのだろうが。

それと大きな違いとしては、ジーニアとアメーリアを繋ぐグィードの設定から、兵役中であること、農村出身であることが捨象されていることも挙げられる。

「グィードは画きたいと思っている丘について語った。彼は横たわって陽射しを乳房に受けたひとりの女のように、丘を画いてみたかった。そして丘には、女だけのものである、あの流れる線と味わいとを、与えたかった。

 ロドリゲスが言った。「もう画かれたことだよ」

 (中略)グィードが言った。「いや、そんなことはない。ふたつのことをいっしょになしとげた人間はいないんだ。ぼくはひとりの女をとらえて、きみのまえに描き出してみせる、虚空に横たわる丘のように」

 「象徴の絵画。それでも、女を描けば丘は描けない」と、ロドリゲスが腹を立てながら言った。」(76頁)

小説においてグィードはおそらく著者パヴェーゼに重ね合わされている存在で、おそらくパヴェーゼにとって『美しい夏』とは「ふたつのことをいっしょ」に書くことだったのだろう。

映画で感心したのが、ジーニアがモデルとして立とうとする場面。小説では単に第三者(グィードと同居するロドリゲス)に目撃されたことがショックで立ち去ることになっているが、映画ではアメーリアとの関係に重きを置かれ描写されている。今時モデルとして裸を見られただけでショックは受けるまいが、この改変は単にそのような消極的な理由ではなく、ジーニアがアメーリアを追体験することで彼女への想いを自覚することが描かれている*1

映画のラストは取って付けたようなものとして描かれているが、小説でも描き方は違うが同じような印象だった。奇跡とはそのようなものなのかもしれない。

*1:小説と映画の記憶が混ざり合いつつあるので実際の映画の描写とは違うかもしれない。