ハル・フォスター『What Comes After Farce?』(2020)を読む2

 フォスターはトランピズムの分析にあたって、ペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』(1983)を取り上げる(「第5章 原父トランプ(pere Trump)」)。

 

 フォスターはここで参照していないが、『シニカル理性批判』が手元にないので、ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(1989)の整理を借りよう。

 

 スローターダイクによれば、「イデオロギーは何よりもシニカルに機能し、古典的な批判的—イデオロギー的処置を不可能に——より正確には無意味——する」というテーゼにまとめられる。シニカルな主体は、イデオロギーの仮面と社会的現実の距離を知っているが、それにもかかわらず仮面に執着する。ここではイデオロギーの欠陥を批判し、その馬鹿げた性格を指摘するという方法は通用しない。なぜなら、シニカルな主体は百も承知だからである。ジジェクスローターダイクの主張を次のように公式化する。

 

「彼らは自分たちのしていることをよく知っている。それでも、彼らはそれをやっている」

 

 主体は誤謬をよく知っている。イデオロギーの背後にある特殊な利害をちゃんと見抜いている。にもかかわらず、それを放棄しないのである。

 

 フォスターによれば、トランプ主義者の振る舞いはまさしくシニカルな主体そのものである。トランプ主義者は誤謬を知ろうとしない、もしくは知っていても気にしないのである。

 

 トランプのような恥知らずのリーダーをどう侮蔑すればいいのか。フォスターはこの状況を「ポスト恥の社会」と名付ける。面白いのがトランプ分析にあたって、フロイトの「トーテムとタブー」(1913)を使うところだ。

 

 この論文はトーテミズムの起源を、子どもたち兄弟による全員一致の「父殺し」に求めている。全権を持つ家父長である父(暴力的な原父)は女を独占し、恣にしている。それに不満を持つ息子たちは立ち上がり殺害した父をむさぼり食うところまで行き着くも、その罪悪感から父をトーテムとして祭り上げ、インセストタブーの法が設立され、社会が始まったというほら話である。

 

 フォスターはこの「先史時代の寓話」を「王を転覆させたブルジョワ革命の解説」として、「民主主義の寓話」として読む。民主主義によって王が断罪された後に、独裁者が(トーテムとして?)戻ってきたのである。数年後、フロイトは「集団心理学と自我の分析」(1921)で同じ問題を論じ直している。「集団のリーダーは依然として恐ろしい原父のままであり、集団は依然と無際限の力によって支配されることを望み、権威への強烈な情熱を持っている」。

 

 トランプ支持者は単に愚かなのではない。フォスターは言う。トランプに投票した人々が性差別主義者で人種差別主義者であることは疑いえない(2016年の選挙ではアメリカの白人男性票の63%を獲得した)。そして、彼らはエリートに対して怒っている。だが、「彼らは同時に、トランプに興奮し、彼を支持することに興奮している。ここには否定的な憤りだけでなく、肯定的な情熱が存在する」。

 

 トランプ支持に背景には、群れ(兄弟)を原父に結びつける「エロティックな絆」があると示唆している。トランプは法を体現し(兄弟を支配する)、同時に法の違反を実行する(どんな女性にも手を出すことができる)。子どもたち兄弟は権威としての父に服従し、無法者としての父を羨望するという、強力な二重の同一化が生まれているのだ。

 

 レーニンの弟子を自称するスティーブ・バノンが政府の「脱構築」を呼びかけると、トランプはそれに応えるかのように大統領令や人事、そしてツイートによって、あらゆる種類の法律や慣習、慣例をいとも簡単に破壊した。

 

 この倒錯的な状況にどう対処すればいいのか(フォスターは『ザ・スクエア』という映画にトランプ的なものが予見されていたとするが、未見なのでこの部分は省略する)。

 

 フォスターは、単に法を回復するのではなく、別の形で再定義することが必要であるという。それは単にカオスを取り締まるのではなく、コミュニティの新しい構成に合わせて作り替えることだ。破壊的な緊急事態を構造的な変化に転化させる好機として捉えている。とはいえ、いかにも抽象的な優等生的な答えという感じは否めない。

 

 とりあえず以上がフォスターがアメリカ社会についての現状認識である。続いて、批評についての現状認識を見る。