ハル・フォスター『What Comes After Farce?』(2020)を読む3

 フォスターは本書の序盤で2011-12年のMoMA PS1の展覧会「September 11」に触れ、「今日の美術鑑賞のモードは情動的なものと化している」と指摘している。フォスターによれば、カントは「作品は美しいか」という古代からの問いを立て、デュシャンが「作品は芸術か」という問いを立てたとすれば、我々の第一の基準は「このイメージやオブジェクトは私の心を動かすか」となっている。

 

 過去の偉大な芸術との比較によって判断される作品の「クオリティ」、現代の美学的・政治的議論との関連性によって測られる作品の「面白さ」や「批評性」だったが、今や問題ではない。私たちは客観的に検討することもできなければ、議論をすることもできないパトスを求めている。つまり、ある作品が「私」の心を打つ(a hit for me)としても、「あなた」の心を打つとは限らないのだ。

 

 急に卑近な例を出すと、最近よく聞く「Not for me」という言い回しはこの情動的変化を表す典型例だろう。この作品は私には合わない、ぐっとこない、以上。ここに議論は存在し得ない(むしろあらゆる作品はNot for meであるからこそ面白いと思うのだけれど)。この作品のどこに違和感を覚えたのか、それはどのような論理によるのかという分析は忌避される。美術の受容が情動的なモードに陥っているかぎり、批評は存在しえない。

 

 最終章「リアルフィクション」では、批評に大きな影響を与えたマルクスフロイトニーチェに共通する「疑惑の解釈学」が無効になりつつあることが指摘される(「症状」に「階級闘争」、「無意識」、「権力への意志」を読み取る)。

 

 「疑惑の解釈学」はイデオロギー批評の方法の別名でもある。現実を隠蔽し、それを補強するような表象があり、批評によってその背後にある現実(イデオロギーの実体)を暴くのである。ブレヒトからバーバラ・クルーガーまで多くのアーティストはイメージやテキストを組み合わせ、モンタージュすることで作品を作り、現体制のイデオロギーを暴露してきた。

 

 ロラン・バルトの『現代社会の神話』(1957)はイデオロギー批評の典型である。バルトは中産階級の文化から、そこに込められたイデオロギーを神話として読み解いた。フォスターによれば、1972年に英訳された『現代社会の神話』は、80年代まで多くのアーティストや批評家にとって「批評的教育マニュアル」となったという。その影響はシェリー・レヴィーンやヴィクター・バーギンなどイメージ・アプロプリエーションを手法とするコンセプチュアルなアーティストやフェミニストにも及んだ。

 

 フォスターは批評の依拠する「現実」の枠組みをバルトの歩みに沿って三段階に分けている。上の『現代社会の神話』までが第一段階。1971年にはバルトは「どんな学生でもこうした形式のブルジョワ的ないしはプチブルジョワ的な性格を非難することができるし実際に非難している」「もはや覆いを取るべきは神話ではなく、記号そのものを揺り動かさなければならない」という言葉を書きつけ、隠された深層ではなく、「物事の表面に、見落とされつつも平然と横たわっている」ものとしての「現実」を志向する。これが第二段階である。

 

 68年以降に「現実効果」(1968)や「S/N」(1970)などで、バルトは物語の分析を通してそれが「現実を写すのではなく、現実の(描かれた)コピーを写す」ことから成り立っていると示した。複製の複製。パスティーシュという方法は、美術史やポップカルチャーのモチーフを作品に利用するネオ表現主義の画家やポストモダン芸術家の主要な方法となった。

 

 第三段階が『明るい部屋』(1980)である。見るものの無意識を刺激する写真の細部、プンクトゥムイデオロギー批評では、批評家は「現実」を暴露するが、ここでは「現実」が批評家を暴露する。またポスト構造主義批評では、主体は慣習やコードによって退けられるが、ここでは主体が「トラウマ的な現実」の目撃者として召喚される。プンクトゥムはすべての象徴化に抵抗する現実以上に現実的なもの、というラカン的な概念である。しかし、このリアル(現実的なもの)を描くリアリズムすら登場する。90年代のマイク・ケリーや小説家のデニス・クーパーに代表されるアブジェクト・アートやフィクションである。かれらは汚れや破損を作品に取り込んで現実的なものを表象した。

 

 フレデリック・ジェイムソンはポストモダン文化への移行を先進資本主義のもとでの記号の崩壊という観点から捉えた(浮遊するシニフィアン)。だが、第三の枠組みである「外傷的情動としての現実」は先進資本主義に抵抗することはできなかった。もちろん、エイズの蔓延や制度的貧困、人種差別、性差別、崩壊した福祉国家など、テキスト的現実からトラウマ的なものへの移行は進んでいった(「記号の帝国」への内的な抗議として「傷む身体」が出現したことはたしかだろう)。

 

 勝手にまとめると第一段階が表象に潜む隠れた「現実」。第二段階が表象に表面に現れている(が見落とされている)「現実」。第三段階がトラウマ的なものとしての「現実」。

 

 フォスターによれば、この10年で「現実」の枠組みはさらに変化を遂げてたという。イデオロギー批評は批評家が傲慢に見えるという理由で攻撃を受けた(いわゆる批評嫌われ問題だろう)。ポスト構造主義的な方法は現実を措定する能力そのものを侵食すると非難されるようになり、さらにその方法は右派に略奪される(「地球温暖化問題は社会的構築物」などのトンデモ転用)。そして、「外傷的情動としての現実」は目撃者、生存者としての主体という強い装いのもと、新たな権威を纏うようになった。だが、この変化はそれ自体問題を孕んでいると指摘している。誰がこの権威に疑いを持つができるというのだろうか? 批評はここでも無効化されている。9.11の展示に見た情動的なものの前面化とはこのことを指しているのだろう。

 

 そこで注目を集めた(つつある?)のがブルーノ・ラトゥールである、という。ラトゥールは「批評家は仮面を剥ぐもの(論破するもの)ではなく、集合させるものである」「何かが構築されているならば、それが壊れやすく、それゆえ細心の注意と慎重さを必要とすることを知っているものである」と主張した。

 

 これはいわば「現実」を「手入れすべき壊れやすい構築物」とみなす立場である。フォスターによれば、近年のドキュメンタリー制作にもその傾向は顕著であるという。元来、イデオロギー批判の立場やポストモダニズム理論にとってドキュメンタリーは評判の悪い対象だった。ブレヒト新即物主義の写真を批判し、アーティストのマーサ・ロスラー(Martha Rosler)も「不適切な記述システム」と位置付けた。

 

 フォスターは、ラトゥールのシフトに対応し、ドキュメンタリーを「効果的な批評システム」として復活させたアーティストとして、ハルーン・ファロッキ、ヒト・シュタイエル、トレヴァー・パグレンらを取り上げる。再構成的なドキュメンタリーということらしい。

 

 これは「個人の証言」に基づき「被害者への共感」を目的とする目撃者の政治(トラウマ的現実の枠組みに対応)から、「物質化とメディア化のプロセス」として行われる人権擁護の政治への転換だという(Eyal Weismanという人の主張を参照している)。論争中の出来事をイメージ化し、物語化するために、断片的な表象を救い出し、組み立て、配列する。「これらのスクリプトは法廷でも意見陳述でも証拠として提出することができる」(!)。いわば「法医学的実践」であり、「現実を救済する」ことが可能になる。彼らは「表象の背後にある現実を暴くことよりも、閉ざされた現実、あるいは不在の現実を、表象によって再構築することに関心があるのである」。

 

 フォスターはここで文学も取り上げる。トム・マッカーシーの小説『Remainder』(2005)はトラウマと再構築の間で揺れ動いている作品だという(未読、邦訳あり)。

 

 トーマス・デマンドもまた同じアプローチを取っている。デマンドはニュースソースなどのファウンドイメージに基づくモデルから写真を構築する。それは現実を解明したり解体することではなく、活性化することを目的としている。《浴室》(1997)は1987年にドイツの政治家ウーヴェ・バルシェルがホテルの浴室で死体で発見された事件、その様子を撮影したタブロイド紙の写真をもとに作り上げられた作品だ。バルシェルは当時、キリスト教民主主義政党の新星で、政敵の秘密捜査に関わっていた。自殺とされているが死因は不明のままだという。この情報によって、私たちはイメージに対する反応を変える。突然、開いた窓、ざわめくカーテン、しわだらけのマット、排水されていない浴槽。これらが不正行為、犯罪の可能性のある兆候として読み取れるようになるのだ。「ぼやけた痕跡」とデマンド自身は名付けている。これはバルトのプンクトゥムとは違って、不意に現れるものではなく、構築されたものである。

 

 フォスターがトラウマに代わって持ち出すのが「反復」である。シミュレーションでもなく、トラウマ的な過去をめぐるものでもない。「異なる現実を出現させるかもしれない中断、亀裂やギャップ」を生み出すものとしての反復である。

 

 ベン・ラーナー『10:04』(2014)はベンヤミンのハシティズムにまつわる言葉をエピグラフに選んでいる。「来世は今の世界と全く変わらないらしい。私たちが今いる部屋は、全く同じ形で来世にも存在する。今ここで眠っている赤ん坊は、あの世でも同じように眠っているという。そして私たちは、今着ているのと同じ服を向こうの世界でも着るだろう。全ては今と変わらないーーただほんの少し違うだけで」(木原善彦訳、新潮社)。ここにあるのも反復のモチーフだ。全ては反復する。ただし「ほんの少しだけ違う」。

 ベン・ラーナーは詩人である主人公にクリスチャン・マークレー《The Clock》(2010)を鑑賞させる。

「『ザ・クロック』を虚構の時間と現実の時間とを融合させる究極の試みーー芸術と生活、幻想と現実の間にある距離を消し去る作品ーーだとする批評家の意見を僕は聞いたことがある。しかし僕が携帯で時間をチェックしたのは、僕にとってその距離が消えていなかったといういい証拠だ。現実の時間と『ザ・クロック』の時間は数学的には判別不能だけれども、やはり別々の世界の時間なのだ。僕は『ザ・クロック』の内部で流れる時間を見たが、僕自身はその中にいなかった、あるいは、時間そのものを経験はしたものの、単なる媒体としての時間の中で何かを経験したのではなかった。いろいろな場面の中から重なり合う物語を紡ぎ出したり、ほどいたりするうちに僕は、ある1日の出来事を材料にしてどれだけたくさんの異なる日々を作り上げることができるかを痛感し、決定論よりも可能性を、フィクションというユートピアのきらめきを感じた」(同前)。フォスターは引用していないが、次のように続く。「スクリーン上に映し出されているのと同じ尺度の時間単位を携帯で見るという行為は、芸術と日常の間にまだ距離が残っていることを示していたのだ、全ては今と変わらないーー部屋も、赤ん坊も、服も、時間もーーただほんの少し違うだけで」(同前)。つまり、フォスターは芸術に、来世=あの世=ユートピアを重ね合わせる。それは現実の反復だが、「ほんの少し違う」差異を含み、それによって「フィクションというユートピアのきらめき」を感じさせる。

 

 この「フィクションというユートピアの煌めき」をいかに「現実」に打ち返すか、というのがフォスターの一応の結論らしい。批評について、それが依拠する「現実」の枠組みについての分析は鋭いが(日本でバルトに対応する批評家は誰になるのだろう)、ここでもやはり処方箋は抽象的である。そのことにフォスター自身も気付いてはいるのだろう。

 

 例えばフォスターは最後のドキュメンタリーモードの作家の一人としてヒト・シュタイエルをあげているのだが、その評価は厳しい。シュタイエルはこのFarce的状況を受け、「悪いものをさらに悪くする」ことで、物事の本当のひどさを示す戦略を選んでいる。この逆説的なアプローチに、終末への欲望を読み込み、「資本主義(システム)の終わり」と「世界の終わり」を重ね合わせる錯誤を指摘する。「右派の地獄の炎のような政治家に囲まれているのに、なぜ左派の批評家はこのように終末論的な口調なのか」。これはデリダが「哲学における最近の黙示録的語調について」で問題したことでもあるという。左派論客が終末論的煽りを主張にまぶすには日本でも見られる光景である。

 

 では「フィクションというユートピアのきらめき」をいかに見出すのか。次にフォスターがどのように分析しているかを取り上げたい。