ドゥルーズ 「何を構造主義として認めるのか」でのレヴィ・ストロースの著作への言及は『今日のトーテミスム』と「マルセル・モースへの序文」などである。
「レヴィ=ストロースは、トーテミスムの研究を取り上げて、想像の観点から解釈される限り、トーテミスムは正しく理解されないと言うことを示した。というのは、想像は必ず自らの法則に従って、トーテミスムを人間や集団が動物に同一化する操作と見なすからである。しかし、記号的には、まったく別のことが問題となる。ある項と別の項の想像的同一化ではなく、項の二つのセリーの構造的な対応が問題になる。一方には、微分的関係の要素として把捉されるう動物種のセリー、他方には、それ固有の関係の内で記号的に把握される社会的位置そのもののセリーがある。「差異の二つのシステムの間」で、要素のセリーと関係のセリーの間で、照合がなされることになる」(78頁)
『今日のトーテミスム』(仲澤紀雄訳、みすずライブラリー、2000年)では、過去の「トーテミスム」研究が、ドゥルーズ の整理する通り「想像の観点から解釈」されていることを批判し、代わってレヴィ=ストロースによる構造主義的な解釈を提示している。トーテミスムは氏族と神話の間に位置するために、人類学の研究史でも位置付けが難しかった。
トーテミスムでは動物界および植物界のものがトーテムとして使用される。それは「ただ単にそこにあるからという理由ではなく、これらの世界が人間に一つの思考法を提供するからだ」(25頁)。
「精神は、表示体系の中というよりは、むしろ、一方には種xと種yとの間、他方には氏族aと氏族bとの間に存在する示差的格差の間に相同性を要求する」(同頁)
差異のシステムの間で照合がなされる。トーテミスムとは(記号の生き物である人間の)思考法なのである。
ドゥルーズ が取り上げるのは、鳥と双子のトーテミズムである。
「レヴィ=ストロースが援用する「鳥のセリーと双子のセリーの二重のセリーでは、「高きにある人物」である双子は、低きにある人物との関係で、高きにある鳥の場所ではなく、「低きにある鳥」の場所に必ずやって来る」(80頁)
これだけを読んでも意味不明だったので、『今日のトーテミスム』を手に取って見たのだった。
130頁から134頁が該当箇所である。エヴァンス=プリチャードのヌエル族の民族誌を参照し、ヌエル族における双生児の定義を検討している。
ヌエル族は双子を「一人の人間」(ラン)であり、他方では「鳥」(ディット)と呼ぶ。これらの表現を正しく解釈するには、推論を追って検討する必要があるという。
霊力の発現である双生児は「神の子」(ガット・クォート)であり、神にいるところである「天の人々」(ラン・ニアル)であるため、「地上の人々」(ラン・ビニ)である普通の人々と対立する。そして双生児は「天」にすむ鳥との関係で理解される。
「鳥は《天》のものであるため、双生児は鳥と同じように扱われる。しかし、双生児はそれでもなお人間存在だ。かれらは《天のもの》でありながら、相対的には《地上のもの》である」
加えて鳥も種類によって位階が存在する。高いところを飛ぶ鳥は「天の鳥たち」、低いところを飛び他の鳥よりも飛べない鳥は「地の鳥たち」。人間であり鳥であるところの、双生児がほろほろ鳥やしゃこなどの「地上の鳥」の名で呼ばれることはこのようにして理解される。
「双生児が《鳥である》のは、双生児と鳥とが一つであるからでも、双生児と鳥に類似しているからでもなく、双生児が、他の人間に対しては《地上の人びと》に対する《天の人びと》のようなものであり、鳥に対しては《天の鳥》に対する《地上の鳥》のようなものだからだ。つまり、双生児は、鳥と同じく、至上の精霊と人間との中間的地位を占める」(132頁)
それぞれの鳥についての想像的な解釈やプラグマティックな解釈ではなく、あくまで論理的な連鎖、構造をみるような解釈。これが「野生の思考」を読み取る構造主義の考え方と言えよう。
人間と鳥で例えるのは隠喩である。レヴィ=ストロースは、人間集団と動物種との間に措定されている関係は、「隠喩の秩序」に属するという(132頁)。「足なき住民」(ヘビのセリー)、「河川の住民」(水流および沼地の生息する全ての動物のセリー)、「神の子たち」「神の子のおいたち」(鳥のセリー)……様々種類の動物は、隠喩に基づいた理論的分類がトーテム表象の基礎となっている。
双生児と鳥との間の関係は単なる二相的関係ではなく、双生児、鳥、神の三相的関係である。「神との関係において、双生児と鳥は共通の性格を提示する」(エヴァンス=プリチャード)
「いわゆるトーテミスムなるものは、動物および植物に関することばで形成された特殊な用語を用いて(しかも、その点にその唯一の特異な性格があるのだが)、違ったふうに形式化することもできる相関関係や対立をそれなりにーー今日ならば、独自の法則(コード)に従って、と言うところだろうーー表現しているにすぎないことになる」(144頁)
構造主義は言葉=記号(とそれに紐づく親族関係)の交換関係に注目し、その社会のコードを読み取ろうとする。
再びドゥルーズ に戻る。
「こうした二つのセリーの相対的移動は決して二次的なことではない。相対的移動は、外部から二次的に想像上の変容を与える仕方で、項に影響を及ぼすのではない。反対に、移動は本来は構造的か記号的である。本質的には構造の空間の場所で移動が起こり、こうして、二次的に場所を占めにやって来る存在者と対象者の想像上の変身が命じられる。だからこそ、構造主義は隠喩にも換喩にも注意を払うのである」(81頁)
レヴィ=ストロースも依拠する構造主義言語学のロマン・ヤコブソン は、失語症の研究から、隠喩と換喩の機能の違いを発見した。レヴィ=ストロースのトーテミスム研究でいえば、人間と鳥で例えるのは隠喩だが、この記号操作により、トーテミスの象徴体系が可能になっているということである。
『今日のトーテミスム』はベルクソンやルソーへの意外な高評価や何よりもレヴィ=ストロースのまさに人文主義者と呼べるような書きっぷりが読み応えがあるなど読みどころもあるのだが、「マルセル・モースへの序文」に移ろう。
ドゥルーズ はファルス、対象xを論ずるにあたってレヴィ=ストロースを参照する。
「レヴィ=ストロースでさえも、「マナ」とその類例において、「浮遊するシニフィアン」、構造内を循環するゼロ記号が存在すると認めている」(86頁)
「マルセル・モース論文への序文」は『社会学と人類学Ⅰ』(1973年、弘文堂)に掲載されている。
マナがどういうものかはモース『贈与論』を読まないとわからないわけだが、シャーマンのよって操作されるものでもあり、「事物に直面しての一定の精神情況の相関物、つまり、この精神情況が与えられた場合には必ず現われずにはいないものである」(35頁)。『呪術論』で、ある部族についての類縁の概念である「マニトー」という概念について、「それは、とりわけ、いまだ共通の名称をもたぬ未知のすべての存在を示す」という神父の観察を引用している。ある女は山椒魚を見て、「怖い。これはマニトーだ」と言った。ある牛を見たことのない部族は、彼らがいつも星に対して用いてきたように「アタス」という名で牛を呼んだ。レヴィ=ストロースによれば、アタスもマニトーと同じくマナに近い概念だという。
現代社会でも、「あの人には「なにか」がある」という言い回しがある(「あの人は「持っている」」など)。レヴィ=ストロースはこれはマナに近い用法だという。先回りして言えば、これはラカンに言わせればファルスの作用だろう。
「われわれの社会ではこれらの概念が流動的・自然発生的な性格を性格を有するのにたいして、他の社会では熟慮された公的な説明の体系(システム)ーーつまり、われわれの場合は科学にあてがっている役割ーーを基礎づけることに役立っているという事実によるものである。しかし、いつでもどこでも、この型の概念は、いわば代数の記号のようなもので、それ自身は意味をもたずにそれだけでまたどんな意味でも構わずに受け入れることができるので、意味的に不特定な価値を表象する。そして、その唯一の昨日は、シニフィアンとシニフィエの間のずれを埋めること、あるいは、より正確にいえば、シニフィアンとシニフィエとのあいだの不全の関係が、あれこれの状況や場面あるいはこれらの観念の表明の際に、それ以前の補足の関係を破棄して確立されるのだという事実を表徴するということである」(36頁)
シニフィアンはシニフィエに対し過剰に存在するため、ずれが生じ、それを埋めるためにあるシニフィアン=マナが用いられる。マナとは一体何なのか。「実のところ、マナはマナだとしか言いようがない」(37頁)。
雲を起こし雨を降らせようとするとき、煙を立てるという呪術的行為がなされる。このとき煙と雲とを融合させようとしてマナに訴えることがあっても、煙と雲の素朴な区別に基づいているのではない。思惟のより奥深い平面(象徴的思惟)で、煙と雲が同一視され、この同一視によって後続の観念連合(=雨を降らせる)を正当化するのであって、その逆ではない。
レヴィ=ストロースは、ここで言語の問題に言及する。「言語の誕生はただ一挙にしかありえなかった」。なにものも意味を有しない段階から、すべてが意味をもつ別の段階への移行が実現したのである。しかし、だからと言って、言語を得ただけでは世界は「よく知られたもの」にはならなかった。当然ながら、先ほどの山椒魚のようによく分からない存在が出てくる。それをなんとか自らの言語体系に収めようとして「マナ」が持ち出される。
科学的思惟はシニフィアンとシニフィエとを関係づけて等式化する。現代のわたしたちは科学的知識を得ているが、象徴的思惟と共通の性格がある。なぜなら、わたしたちはリモコンや携帯電話一つとっても、その科学的仕組みを理解していないにもかかわらず使用することができる(理解はできなくとも信頼している)。レヴィ=ストロースはここで「人間の条件」を抉り出している。ここでも言語が深く関わる。
「すなわち、人間はそもそもの初めから、意味するものの(シニフィアン)の総体をどうにでも処分することができるのであるが、意味されるもの(シニフィエ)にそれを割り当てるためには、後者がそれに見合うほど知られないままかかるものとして与えられているので、まったく当惑せざるをえないという状況がそれである。シニフィアンとシニフィエのあいだには、神の理解力をもってしてのみ解消できるような種類の不均衡があり、その結果、シニフィエに対しシニフィアンの過剰が存在し、その過剰はシニフィエ次第できまることことになる。それゆえ、人間は世界を理解するための努力の中で、つねに余分の意味を処分している」(40-41頁)
言語の生き物である人間にとって意味の「過剰」をどう処分するのか、が人間の条件となる。
かの有名な「浮遊するシニフィアン」が登場するのが次の一節である。
「(※マナ型の観念を一般的な機能において考察するならば)まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的な創造の保証でもあるところの)かの浮遊するシニフィアンを表象していると考えている」(41頁)
マナは内容のない形式、純粋の象徴であり、それゆえに、いかなる象徴的内容をも帯びることができる。「すべての宇宙論がつくりあげる象徴の体系のなかで、これは単にゼロの象徴的価値を示すもの」である。
ドゥルーズ は「浮遊するシニフィアン」=マナを、「構造内を循環するゼロ記号」とよりシステマティックに捉え(より抽象化し、ラカンの理論と結びつけて理解している)、これをラカンのファルスと結びつける。この読解には、ラカンの「「盗まれた手紙」のセミネール」の読解が不可欠であるので、あらためて取り上げたい。
今回、読んで気になったのが、次の一節である。
「モースは《マナは……は命題における繋辞コプラの役割を果たしていると明言している》」(32頁)
モースによればマナとはコプラ、つまり主語と述語を繋ぐことば(「〜である」)だという。
ラカンも同様に、ファルス(というシニフィアン)はコプラだと言っている。
「このファルスというシニフィアンは、性的交わりというリアル[le reel de la copulation sexuelle]のなかでつかむ[理解する]ことができるもののうちでもっとも顕著なもの[le plus saillant]として選ばれたのだと言うことができるでしょう〔=ファルスの現実性〕。同様に、用語の文字通りの(印刷技術上の)意味において、もっともサンボリックなもの[le plus symbolique]として選ばれたのだと言うこともできます。なぜなら、そのファルスのシニフィアンは(論理的)連辞[copule (logique)]と等価であるためです〔=ファルスの象徴性〕。また、その膨張性によって、世代をわたって伝えられていく生命的な流れのイメージであると言うこともできます〔=ファルスの想像性〕。」
モース、レヴィ=ストロースとラカンはこのようにして繋がるのだろう。極めて大雑把に言えば、マナ=ファルスと言ってもいいのかもしれない。ファルスによって意味の過剰を処分し、世界を安定化させている。
ところで、人類学と精神分析について、『今日のトーテミスム』の中で、レヴィ=ストロースは次のように書いている。
「シャルコーのヒステリー理論に対するフロイトの批判がもたらした第一の教訓は、健全な状態と精神病の状態との間には本指摘な違いは存在していないこと、前者から後者への移行とは、せいぜい、だれもが自分自身について観察することができるような一般的な操作の進行過程においてある変化が生ずるだけであること、したがって、患者が根源的にはあらゆる個体の歴史的発展にほかならないものの退化ーーその性質はあまり重要ではなく、形は偶有的、定義という点では客観性に乏しく、しかも、すくなくとも原則として一時的な退化ーーによってかろうじてわれわれと区別されるのであってみれば、患者は、要はわれわれの兄弟にすぎないことを納得させたことであった」(6頁)
マナやトーテミスムを操る人々や精神疾患、精神病患者は、「われわれの兄弟にすぎない」のである。