ポール・B・プレシアド『テスト・ジャンキー』

プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター』が読書会の課題本となったので、日本語で読める理論的著作である『テスト・ジャンキー 薬物ポルノ時代のセックス、ドラッグ、生政治』も読んだ(どちらも藤本一勇訳、法政大学出版局)。

 図書新聞の書評(2024.6.1)で横田祐美子氏が指摘するように、プレシアドはトランスジェンダートランスセクシュアルを、倫理的な社会問題(「トランスジェンダー問題」)としてではなく、哲学として論じる。プレシアドはスペイン生まれ、ニューヨークでジャック・デリダ とアグネス・ヘラーに師事。フーコードゥルーズデリダ 、バトラー 、ウィティグ、ハラウェイ、アンジェラ・デイヴィスらの思考を引き受けた上で、セクシュアリティをめぐる生政治を理論的に把握しようとする。

「二〇一四年一二月十八日から二二日のあいだの記憶も定かではない日に、私は自分の名前をポールと変える決心(決定不可能な決心)をした。ーー奴隷が自由を取り戻して新しい名をつけるように。またパレスチナの村々の名が、そこから追い出された人々が呼びなおすことで生まれ変わるように。これがジェンダー・トランスの最終的・決定的な段階ではなく、置き換えと抵抗の新たな実践である。本書では名づけは、また別のフィクションにすぎない(集団的に共有された名だ)。今、あなた方は私にこの仮面をつける権利を与えなければならない。

本書は私の名の変更以前に書かれたものであるから、元のイニシャルは全てそのまま残した。しかし、カバーに記した名前ーーこれは足跡であり、消し跡であり、約束であるーーは変更した。ポールは、かつてBP(ベアトリス・プレシアド)であったものをすべて吸収し引き受ける。」(1頁)

これは冒頭に掲げられた「著者注記」である。ここからも察せられるように本書は私的な色合いが強く、実際本書は理論的パートと私的フィクションのパートが交互に構成されている。

「テスト・ジャンキー」の「テスト」とは「テストテロン」を指し、プレシアド自身の「トランス」の際に「テストテロン」を注射し続けた。

プレシアドは規律訓練型権力に続くものとして、晩年のドゥルーズ の「コントロール社会」概念を受け、「性の主体性をその生体分子(薬物)と記号技術(ポルノ)において統治するプロセス」(22頁)を、つまり現代の統治体制=生政治の管理体制を「薬物ポルノ体制」と名づける。名前はいかがわしいが、フーコードゥルーズ、ハラウェイの問題意識を正統に継いだものとも言える。コントロール社会論ではセクシュアリティジェンダーの問題は焦点化できていなかったが、この薬物ポルノ体制は、その問題に切り込んでいく。

例えば、美容外科はいかなる起源と歴史を持つのか。元は第一次世界大戦の「顔面負傷兵」の治療のために開発された外科手術や、核弾頭の被害者の処置のために発明された皮膚の再建手術だったが、1950〜60年代に美容外科や性外科に姿を変えていく(20頁)。包皮を人工的に再建する「脱-割礼」がアメリカで最も多く行われた美容外科手術の一つ(!)となっているらしいのだが、これは「ナチズムのみならず、解剖学上の特徴によって人種や宗教の違いを検出できるとする人種差別的なレトリックがもたらす脅威に応答」したものだという。同じ頃、しわ取り手術のような美容外科手術は、新中流階級の身体消費者たちにとっての大衆市場の技術となった。同時期にはプラスチックという新しい物質が日常に侵入してくる。性転換手術はこうした新しいテクノロジーによって可能となっている。

「現代の技術科学の成功は、鬱をプロザックに、男らしさをテストテロンに、勃起をバイアグラに、受胎/不妊をピルに、エイズを抗レトロウィルス薬の三剤併用療法に変える点である。どちらが先だったのか、もうわからない」(23頁)

たとえば、横田氏が指摘するように、ピルやアロママッサージも身体テクノロジーである。規律訓練ではなく、テクノロジーを通した、口や皮膚や血管からの物質の取り込みによって、権力を体内化している。コロナウィルスやインフルエンザのワクチンもまた生政治の実践である。私は花粉症の薬は手放せない。テクノロジーの進歩によって身体は操作可能性を高め、すでに「自然」は疑わしいものとして現れている。そうなると性はどうなるのだろうか。

「セックスについても性アイデンティティについても、暴露されなければならないものなど何もない。内部などない。セックスの真理は覆いをとることではなく、セックス・デザインなのだ」(24頁)

19世紀の規律システムでは、セックスは「自然で、決定的で、不動で、超越論的なもの」だとされてきたが、薬物ポルノ体制では、「合成的で、可鍛、変動的で、変貌に開かれた、模倣可能なものであり、技術によって生産可能および再生産可能なのもの」として立ち会われる(91頁)。おそらく、薬物ポルノシステムにおいては性における不作為も作為として考えられるのだろう。

プレシアドは「フェミニスの文化主義者によるジェンダー定義」を批判する。それは「セックスは解剖学的な所与であり、したがって文化的な構築に縛られないが、それに対してジェンダーは、ある特定の社会や歴史の一時期に作られた、女性の社会的・文化的・政治的な差異をその特殊性において表現したものだ」(91頁)という主張である。これはフーコーが(社会構築主義として?)広く読まれている日本でも影響の大きい考えだが、プレシアドは「フェミニズム本質主義構築主義論争の袋小路に陥ってしまった」こと、そしてフェミニストたちのレトリックが国家政策、性の規範化、社会管理のプログラムに取り込まれてしまったと批判する。プレシアドは、インターセックス活動家のシェリル・チェイスの、インターセクシュアルたちが主流派フェミニストの支持を得ることができなかったのは、インターセクシュアリティが「女性」というカテゴリーの安定を脅かすからだ、という発言を引用している。

フェミズム内のジェンダー概念の使用を最初に批判したのが80年代後半のクィア理論だった。バトラー やデ・ラウレティスは第二波フェミニズムは、「セックスージェンダーの認識フレームを無批判に共有している」と批判した。

ジェンダー概念が切断をもたらすとしたら、それはまさしくジェンダー概念が、性差の認識論について反省を促す最初の契機をなすからである。そのときから、もう後戻りはできない。性の歴史におけるマネーは、哲学の歴史におけるヘーゲルだ」(97頁)

ジョン・マネーとは1955年に「ジェンダー」という用語を発明した北米の小児精神科医。マネーは18ヵ月までならどんな赤ん坊の性でも変更することが可能と主張したことも有名で、保守派からは悪魔のように批判されている(『ブレンダと呼ばれた少年』)。マネーは肯定的に紹介している人は珍しいという印象なのだが、プレシアドはヘーゲルラカンに比して、その画期性を見出している。

プレシアドによれば、身体政治は常にいまここで生じている。鼻形成術が美容外科手術とみなされ、ヴァギナ形成手術やファルス形成手術が性転換手術とみなされているのは、鼻と性器は異なる身体政治テクノロジーによって構築されているためだ(100頁)。

「鼻が、器官を個人の所有物や商品とみなす薬物ポルノ権力によって規制されているのに対して、生殖器のほうは、いまだに前近代的で、至高的で、ほとんど神権的と言って良い権力体制のなかに幽閉されている。そこでは生殖器は国家の所有物であり、不変の超越論的な法に依存するものとみなされている」(100頁)

鼻を手術することは個人の自由となっている。しかし、性器を変形させることが国家に管理されているのはなぜか? とプレシアドは問うているのだ。旧態依然とした戸籍制度をもつ日本はより「神権的」と言えよう。

「普遍的な人間の身体など存在しない。存在するのは、ジェンダー、人種、セクシュアリティをもった、多数多様な生ける存在と有機組織である。近代資本主義のなかでは、男女のホルモンや臓器は同じ生政治的な価値をもっているわけでない」(149頁)

身体こそ政治の場である。フェミニズムという言葉ももともとは結核にかかった男性の弱った身体を指す蔑称的な医学用語だった。それがポジティブな意味に変容したのは女性運動が転用したからである。

プレシアドは三人のトランスセクシュアルたちを取り上げる。

一人はフーコーによって有名になったエルキュリーヌ・バルバンと19世紀に生きたマリー・マドレーヌ・ルフォール、そして社会学ハロルド・ガーフィンケルによって「アグネス」と名付けられたある人物である。

フーコーによれば、19世紀末以前の時代、ルフォールが生きた時代の両性具有者は、複数の社会的アイデンティティが許され、性アイデンティティのない世界に生きていた。ルフォールは胸を持つ男性とも、髭と陰茎をもつ女性とも見なされた。しかし新しい近代のエピステーメーは、バルバンに単一の性アイデンティティの選択を強制する。

「エルキュリーヌ・バルバンはこの性の生産の因果のなかで、彼女/彼の身体を医療的なスペクタクルへと、彼女/彼の主体を道徳的なモンスターへと変容させる、一連の乗り越えられない矛盾の断面を体現してしまったのだった」(338頁)

バルバンは両性具有者だったが、単一の性を選択させられ、手記を残して自殺する。

1958年に19歳の若い女性がカリフォルニア大学ロサンジェルス校の精神医学科を訪れる。精神科医、心理学者、社会学者の三人のチームが彼女は「真性両性具有者」と診断。ガーファンケルはアグネスという架空の名前をつける。アグネスは1959年にペニスから膣をつくる外科手術をつくる権利を与えられ、身分証明書の名前も変更することができた。

しかし、その7年後、アグネスは婦人科系の問題で再び医療機関を訪れ、自分のことを解剖学的に男性であり、思春期に入ってから、母親が子宮摘出後の治療のために処方されたエストロゲン系のスティルベストロールをひそかにのんだ少年であることを告白したのだ。このアグネスについてのストーリーのまとめはプレシアドによるものをさらに私がまとめたものなので、間違っている可能性があるかもしれないので注意して欲しい。

プレシアドはこれをジェンダーバイオテロリズムとして評価する。「アグネスのストーリーを分析することで、今日の異常な身体は従順であるどころか、政治的な潜勢力を秘めており、その結果、反体制的な主体化のかたちを創造する可能性をもつことがわかるだろう」(340頁)。

「アグネスは、トランス女性を女らしさを真似たシス男性とみなす「なりすまし」論に逆らう。彼女は、女らしさ/ドラァグクイーン、オリジナル/コピー、自然/工作物、真面目/不真面目、内容/形式、慎み/派手、構造/装飾といった関係性を掘り崩したように思われる。もはやアグネスは、ある程度様式化されたパフォーマンスによって女性を模倣したり、女性になりすまそうとしているのではない。ホルモンの摂取と特殊な語りの生産によって、アグネスは「生理的に」インターセックス化した身体となり、精神医学や法律による性転換のプロトコルを経ずして、性の再割り当て療法に到達しているのだ」(341頁)

プレシアドによれば、アグネスはインターセクシャルを意図的に身体に取り込むことで、「性の真理」=「本当の性」というものを生産する薬物ポルノ体制そのものを批判しているのだ。アグネスは実践するバイオドラァグである。プレシアドは「コピーレフトジェンダーポリティクス」であると評価する。

ここまででプレシアドの主張は概ね分かったのではないだろうか。それでは保守派のいうようにトランジェンダー思想家たちは、性的アイデンティティは自由に選び取れるものだと主張しているのだろうか。

おそらくプレシアドはそう考えていないのではないか。プレシアドは性の神権政治を批判し、同時に性が自由自在に選び取れると主張しているようにと読めるが、本書の自伝的パートを読むとその「選択」がちっとも自由ではなく、過酷な生の生き延びの先にあることがわかるだろう。それはラカン精神分析を参照していることからもあきらかだ。実際に読んでほしい。

「わたしは自分自身を認識できない。T(※テストテロン) をやっているときも。私は自分以上でも以下でもない。 ラカン鏡像段階論によれば、 子どもの主体は鏡像のなかに初めて自分を認めるときに形成される という。それとは逆に、政治主体は、 主体が自分の表象のなかに自分を認めないときにこそ出現するのだ 。自分自身を認知しないことが根本なのである。脱認知、 脱同一化は、現実を変革する可能性として、 政治的なものの出現するの条件である。 一九七二年にドゥルーズガタリが『アンチ・オイディプス』 で投げかけた問いは、いまも私たちの喉元に引っかかっている。「 大衆はなぜファシズムを欲するのか?」」(349-350頁)