(続き)
「登場人物の誰にとっても手紙はその人物の無意識です。手紙は、あらゆる結果を伴った無意識なのです。つまり手紙という象徴が循環するそれぞれの段階で、それぞれの人物は別の人間になるのです」(『自我』下巻38頁)
ここからは立木康介「「「盗まれた手紙」についてのセミネール」のためのノート」の訳を中心に参照することにする。ラカン論文からの引用部には段落を付す。
セクションⅢ(王妃)
このセクションでは第二の主体(神経症的主体)である王妃のポジションが論じられる。本作では手紙の送り主や内容については何も語られない。
「恋文であろうと陰謀の手紙であろうと、密告の手紙であろうと諜報の手紙であろうと、警告の手紙であろうと苦悩の手紙であろうと、われわれが心に留めうることはひとつだけ、それは、王妃がこの手紙を自らの主君にして主人の目に触れさせることはできようははずもない、ということである」(91段落)
しかし、この手紙を主人である王に知られるようになってはならない。なぜなら、この(おそらく不義の)手紙が実在することは、王=法の「正統性」を傷つけてしまうからだ。
王妃のプライバシーと言う権利も王=法の特権に基づいている。故に、手紙の存在は、王妃の忠誠を構成する象徴的連鎖とは相容れない、別の象徴的連鎖の中に王妃を立たせることになる。王妃は手紙を持つことでいわば、法の外に立つ。これが王妃=神経症的主体のポジションである。
「盗まれた手紙(the purloined letter)」のpurloinの語源から、その航跡が延長された、本来の宛先から逸らされた手紙(「手紙は回り道する」)であり、そして「盗まれた手紙」とは「引き取り未了の手紙」であると述べる。
「そういうわけで、これこそが、simple and oddーーと、最初の頁から予告されている通り、その最もシンプルな表現に煎じ詰められたところの、手紙の特異性であり、まさに手紙こそが、タイトルが指すとお利、物語の真の主体=主題にほかならない。手紙は回り道を被りうる以上、それはつまり、手紙はそれに固有の行程(道のり)をもつ、ということである。この特徴において、手紙はシニフィアンにとして入射してくると、ここで言わねばなrない。シニフィアンはおのれの座から離れるべきものなのであるーーひと巡りしてそこに回帰することもあるにせよ」(100段落)
手紙は「固有の道のり」を持つ。ここで、同時に真理の特性が述べられている。ここでいう真理とは誰にとっても適用可能なのもではなく、主体にとって「固有の道のり」を持った真理である。それがシニフィアン=手紙である。ラカンはこのセクションで、手紙を所有できないと言っているが(96段落)、それは真理も同様なのだろう。ベタと言えばベタな話だ。
セクションⅣ(主題の再提示)
第二章の最後の二段落である。セクションⅠで提示された反復強迫における間主体的・象徴的決定が再び強調される。
「まさにそれ(シニフィアンの回帰)こそが、反復自動運動のなかで起きることである。フロイトが『快原理の彼岸』で教えるのは、主体は象徴界のルートを辿るということであるが、ポーの小説で例証されていることは、われわれをさらにハッとさせる。それはつまり、列につくのはたんに(ひとりの)主体ではなく、主体たち、間主体性にとらわれた複数の主体たちであり、いいかえれば、先に述べた駝鳥たちである、ということだ。(後略)」(101段落)
「フロイトがかつて露わにし、いまも峻厳さを増しながら繰りかえし露わにし続けていることに、意味があるなら、それは、シニフィアンの移動=ズレは主体たちをその行為において、その運命において、その拒絶において、その不明さにおいて、その成功において、そしてその運において、その持ち前の才や社会的獲得物にもかかわらず、性格や性別におかまいなく、決定する(後略)」(102段落)
原光景=トラウマは回帰する。それは間主体的・象徴的なルートを辿る。何世代かに渡った家族の「秘密」が受け継がれ、反復される。それは「運命」と呼ぶのにふさわしい。あまりに強調するのは家族主義・運命論者として非難されるかもしれないが、不可知の運命によって主体は決定されているのは、『オイディプス王』を読めば明らかである。
セクションⅤ(大臣)
第三章に入る。第一のシーンでは、分析家の位置にあった大臣は、第二のシーンでは、神経症の主体の位置に移動し、デュパンに出し抜かれてしまう。セクションⅤではこの変化を論じている。
なぜなら、大臣は手紙を他人から守らなければならないので、王妃と同じやり方(手紙を露わにする)を取ってしまうからだ。この時、大臣は神経症のモードに陥り想像界に特有の双数的関係、ナルシズム関係に囚われている。
大臣は「自分を見ていないと見ること、自分が見ていないことを見られているという現実的状況を見誤ること」の状況にいる。ラカンの記述を基にした立木の整理が下記のものだ。
想像的状況:人が見ていないと見ること
現実的状況:自分が見ていないことを見られていること
象徴的状況:自分が見られていないと見ていることを見られていること
大臣は象徴的状況から想像的状況にスライドしている。いわば今「駝鳥他者状態」にハマっている。間主体的な理由(状況に強制されること)でそうなっているのだ。
「ここでは、シーニュと存在が見事に切り離され、両者が対立するときにどちらかが勝るかをわれわれに見せてくれる。女の恐るべき怒りを見くびり、それをすすんで買うほどには男である男が、自分が女から奪ったシーニュの呪いを受けて、変身してしまうまでに至るのである」(110段落)
大臣はシニフィアン=手紙の「抑圧された回帰」によって変身(位置を移動)してしまう。大臣はセクションⅢの王妃のように「法の外部」に立つ。立木は大臣は「女性化」していると言う。
「そのような具合に、盗まれた手紙は、巨大な女体よろしく、大臣のオフィスの空間に横たわっており、そこへデュパンが入ってゆくのである。しかし、すでにそのようなものとして、デュパンはそこに手紙を見いだすことを予想しているのであり、彼は緑色のメガネに隠れた目で、この巨体の衣服を脱がしてやりさえすればよいのである」(130段落)
セクションⅥ(デュパン)
第四章に入る。デュパンは事件に解決によって5万フランの報酬を得る。これはどのような意味を持つのか。
「実際、おそらくデュパンが手紙の象徴的回路(象徴界の回路)から身を退かなければならないと考える場面で、われわれ自身(=精神分析家)のことが問題になっているとわれわれが思うのは当然のことではないだろうか。ーーわれわれは、転移においてわれわれのもとで少なくともしばらくのあいだ受けとり未完了の状態になるのであろうあらゆる盗まれた手紙の使節の役を務めるのであれば。これらの手紙の転移(=転送)に伴う責任をこそ、われわれは中和するのではないだろうか、この責任を、いっさいのシニフィカシオンをもっとも無化するシニフィアン、すなわち金銭と等価にすることによって」(135段落)
精神分析では金銭の授受が必要不可欠となる。それは転移を切断するためである。切断がなければ治療は完了しない。デュパンは報酬を受け取ることで、シニフィアンのリレーから切断されるのだ(手紙を警視総監→王妃に返す代わりに金銭を受け取る)*1。
デュパンについてはもう一つの論点が取り上げられる。大臣への復讐である。偽物の手紙には、ある引用句が書かれていた。過去にデュパンと大臣は禍根があり、その仕返しだとされる。
この時デュパンは「間主体的三人組の当事者」となっており、かつて王妃と大臣が占めた中間項の位置(=神経症の位置?)に身を置いている。おそらくこの状態を切断するために金銭が必要とされるのだろう。
第一のシーンの王も、第二のシーンの警視総監も手紙を読むことができなかった。「この場所が目の見えぬ状態を含んでいる」からだ。
「(前略)このもっとも高次のシニフィアンの重みに人間がひとりで持ちこたえると言うのは、自然なことではない。人間がこのシニフィアンを纏うことで占めにくる座は、最もひどい愚昧さのシンボルとなるにふさわしいでもあるうるのである」(143段落)
王が有能な人間である必要はない。シニフィアンを纏うものは、愚かなシンボルで構わないのである。
「いってみれば、王はここで、聖なるものに自然な多義性によって、まさに〈臣下=主体〉に由来する愚かさを備給されてしまうのである」(144段落)
主体subjectとは「従うもの」である。主体の愚かさを、王は引き受けるのである。
セクションⅦ(デュパン対大臣)
第五章が扱われる。間主体的コミュニケーションとは「手紙を宛先に届けること」によって成功する。それを行うのは分析家である。
大臣は賭博者であるとされる。賭博者の情熱とは、シニフィアンに向けられた次のような問いである。シニフィアンは偶然のアウトマトンによって形象化される。
「「お前が私の運と出会う(テュケー)場所で私が転がす賽子の姿にかたどられたお前は一体何ものなのか? 何ものでもない、人間の生を、お前のシーニュがそれを従える杖であるところのシニフィカシオンの名のもとに、朝から朝へと勝ち取られるあの猶予へと変えてしまう、あの死の現前でないとしたら。ちょうどシェエラザードが千一夜のあいだそうしたように、また私が、丁半ゲームでいかさまに出された目のめくるめくような連続という代価と引き換えに、このシーニュの勢力を18か月のあいだ体感しながら、そうしているように。」」(151段落)
断っておくとポーのテクスにはこのようなセリフはない。ラカンの創作である。大臣にとって盗みは賭けであった。
このように問う大臣に対し、デュパンは「女性的な本性をもつ憤怒を禁じ得ない」。デュパンが書き込んだ「かくも不吉な運命は、アトレウスにふさわしいのではなく、テュエステースにこそふさわしいのである」は、クレビヨン『アトレウス』は苛烈な復讐劇である。立木によれば、このアトレウスの台詞(なんとアトレウスの台詞だったとは!)は、復讐が遂げられた直後に告げられる。デュパンの怒りがいかに激烈だったかを示すものだったという。
ラカンにこの台詞の引用は次のような意味が込められているという。
「お前は自分で行動しているつもりでいるが、私こそがお前を、お前の欲望をそれによって結える紐帯のおもむくままに、駆り立てている。こうして、お前の欲望は力をたくわえ、対象を増やし、それら(の力や対象)がお前を、引き裂かれた子供時代の寸断状態へと連れ戻すのだ。ところが、これこそがまさに、石の客の帰還にまで至るお前の饗宴となるであろうものだ。お前が私に呼びかけた以上、私がお前のためにこの石の客となってやろう」(156段落)
これは次のようにも言い換えられる。
おそらく、分析家が転移によって、逆に神経症のポジション、「汝のダーザイン」をくらう立場に陥ることがあるということを指しているのだろう。金銭という切断が必要とされる所以である。
ここでもセミネールを参照しよう。どうやら戯曲では、テュエステース(ティエスト)は、自分の子どもを食べることになったらしい。因果応報の帰結は、まさしく「汝のダーザインをくらえ」である。
「患者はあらゆる盗まれた手紙の配達人として時を過ごしている我々もまた、多少共高額のお金を支払わせていますが、それは、我々が患者に支払わせなければ、自分たちの真理を打ち明けにやってくるすべての患者のドラマである、あのアトレとティエストのドラマに我々が陥ってしまうからだということです。このことをよく考えてみてください。患者は我々に彼らの聖なる歴史を語ります。だからといって、我々が聖なるものとか、生贄の次元にいるわけではな決してありません。誰もが知っているように、単にお金でものが買えるだけでなく、我々の文明において最も正しく計算されている価格というものが、お金を支払うことよりもはるかに危険なこと、つまり誰かに何かを負っているいるということを和らげる機能を持っているのです」(『自我』下巻50頁)
お金が「負債感」を和らげる機能を持っていうという指摘は興味深い。
本論文は次の有名な一節で終わる。
「間主体的コミュニケーションとはすなわち、われわれが諸君に教えているとおり、発信者が自らのメッセージを逆転された形で受信者から受けとるという者である。かくして、「盗まれた手紙」が、さらには「引き取り未了の手紙」が、言わんとするところはこうなる。手紙はつねに宛先に届く、と」(160段落)
「自らのメッセージを逆転された形で受信者から受けとる」とはどういうことだろうか。ラカンはセミネールでも様々な例を出している。例えば「あなたは私の妻です」という言葉は、「私はあなたの夫です」という意味で受け取られることで成立する(他にも例があったはずだがすぐには見つけられなかった)。
私が連想するのは山城むつみ『ドストエフスキー』である。山城は「自分の言葉が他者を経由して戻って来る」時に覚える抵抗や分裂、異和を「無意識」と捉える。山城によれば、バフチンは対話におけるカテゴリーとして不同意(ニェソグラーシエ)、異和(ラズノグラーシエ)、同意(ソグラーシエ)の三者を区別し、異和に本質的なものを見ている。同意を促して来る「心に染み透る言葉に対して声を合わせ損ねること」。『カラマーゾフの兄弟』における、アリューシャとイワンの対話。アリョーシャの「あなたじゃない」という言葉は、「殺ったのは俺じゃない」「殺ったのは俺だ」という二律背反の内的対話に苦しむイワンは声を重ねようとするが不協和音を奏でてしまう。
「自分自身の内部の言葉と全く同じ言葉であるにもかかわらず、それが他者の口を経て外部から送り返されて来ると、なぜかくも強い斥力が生じるのか」
「人は自分自身の言葉を、他者の口から発せられたそれを受け容れるという回路でしか認識しえない。人間のすべての悲劇はそこから発しているのではないか。イワンが自分を説得しようと語った言葉をアリョーシャが投げ返してくるとき、その言葉はもとの自分自身の言葉と意味も形式も同一ながら、イワンにとっては全く別のものになってしまっている」
山城の大著は「ラズノグラーシエ」をテーマとし、ドストエフスキー作品における他者との対話を論じている。ラカンはほとんど出てこないが(「全く」かもしれない)、大文字の他者、「裏返されたメッセージ」を連想せずにはいられない。ただ山城の場合は、メッセージが届いたときの「抵抗」を重視している。
「それは論争し拒絶する者ではなく、むしろ同意し受容する者としてあらわれる。他者は、心に染み透る言葉を発する者としてあらわれるのである。逆から言えば、ソーニャ、ムイシュキン、チホン、アリョーシャ、ゾシマらを特徴づけているのは女性的原理(イワーノフ、ベルジャーエフ)などではなく、彼らが発する言葉にほかならない」
「重要なのは、対話の前にあらわれている顔ではない。対話によってはじめてあらわれる顔である」
読書メモもあまりに長くなりすぎた。「「盗まれた手紙」についてのセミネール」は、主体にとってのシニフィアン=手紙=真理について、今も多くのことを示唆するテクストである。「象徴界が衰退した」という議論は通俗的なものに過ぎない(それはそれで意味があると思うが、ラカンの理解には役立たない)。
手紙は必ず届く。「染み通る言葉」とはいかなるものなのか。これはわたしの精神分析への関心のほとんどを占める問題である。同じ言葉でも意味合いが異なるのはなぜなのか(「ローマ講演」を見る必要があるだろう)。届いた時に何が生じるのか。デュパンの復讐も「抵抗」の一種なのかもしれない。
参考
*1:フィンクもそう書いていた気がするのだが、該当箇所が見つけられなかった。