マキャヴェッリ「マンドラーゴラ」

「マンドラーゴラ」(脇功訳、『マキャヴェッリ全集4』所収)を読んだ。マキャヴェッリの喜劇である。キャラが立っていてセリフも気が利いていて筋も意外に読ませるものがある慣れた筆致なのだが、その全体的な印象は珍妙。木庭顕が「政治的階層の堕落批判のみならず、その再建方法の模索が作品において遂行され」(『人文主義の系譜』)た作品とあり、全集の解説でも「きわめて庶民的で、色彩豊かな言葉のやり取りにもかかわらず低俗に堕さず、鋭い批判精神に基づいたある種の品位が感じられる作品」とあるののだが、こちらに素養がないためか、そのような印象は受けなかった。

パリ帰りの裕福な青年カッリーマコが、地元フィレンツェにいるルクレツィアという貞淑な人妻の評判を聞いて夢中になり、カッリーマコの召使であるシーロや食客であるリグーリオとともに、その間抜けな夫ニチア博士を騙して……というのが主な筋立て。カッリーマコはリグリーオの悪知恵で、ニチアとルクレツィアは不妊に悩んでいるのを利用し、偽医者に扮し(ラテン語を使えるので信用される)、僧ティモーテオをお金で協力させて、ルクレツィアに接近しようとする。

この作品では女性は交換される財で、主な機能は子をなすことである。その強固な前提がやはり気になってしまう。

「良心ということに関しては、この一般原則を守らなければいけません。つまり、確実な善と、不確かな悪とがある場合、その不確かな悪を恐れて、善を逃してはいけません。今の場合、確実な善というのは、あなたがお子を身ごもることです。神さまからひとつの命を授かりなさい。で、不確かな悪というのは、水薬を飲んだあとで、あなたと寝た男が死ぬかもしれぬということです。」(ティーモテオ)

加えて、(過程は省略するが)最終的にカッリーマコはルクレツィアの寝室に忍び込み「事が成就する」のだが、なんと利口で貞淑であるはずのルクレツィアもカッリーマコを受けいるのである。

「狡いあなたと、間抜けな夫と、軽率なわたしの母と、あの神父の悪賢さとに、とうとう、わたし一人では、とてものことにしたりはしないことをしでかす羽目になったのも、神さまのお決めなさったことであり、そう神さまが望まれたのなら、わたしには神さまの望まれること、とてものことに拒んだりできはしないわ。」

これはカッリーマコの独白に埋め込まれた(伝聞の形の)ルクレツィアの言葉の一部。「これからいつもこうしたいもの」とまで言うのである。いくらなんでも性格が変わりすぎではないだろうか。これが本当にルクレツィアの意思だったのか。物語はこれで結末を迎えるのだが、木庭氏曰く、

「ルクレーツィアは、全てを脱ぎ去ってのストレートな求愛に対して全面的に応えた。つまり、うしろめたさや負い目やその他のコストゼロである。そのまま実質的な婚姻の関係がカッリーマコとの間に継続され、それを周囲が認知し、そして子供も生まれる。ニチアは永遠に気づかない。隠して誰も不幸ではない。」

「ルクレーツィアを引っ張り出して結合するのではなく、端的に入って行って獲得するので十分であり、またそうしなければならない。中心の政治自体が硬化症を起こし、領域に足を伸ばしていないのである。むしろ、目の前に明瞭に開けたショートカットの道を奇貨とすべきである。否、電線のショートである。」

「『マンドゥラーゴラ」において主人公が達成したのは極度に自然で透明な、ルクレーツィアとのエシャンジュであった。そして何よりもわれわれは『ベルファゴル』を読む。この世が地獄で地獄が天国であるのは、特に女性が媒介する、エシャンジュのせいである。(略)(※マキャヴェッリは)エシャンジュを忌避するのではなく、領域上のエシャンジュと正面から向き合って透明化しなければならない、というのである。」

部分的に見て論うのではなく全体を見て判断すべきなのはいうまでもないが、果てしてこれが「大円団」と言っていいのか、市民社会における「透明化」された「エシャンジュ」(交換)の劇化なのか。どうにもよくわからないところがあったというのが正直な感想だった。