ハル・フォスター『What Comes After Farce?』(2020)を読む4

 第一部「恐怖と侵犯」の末尾におかれた第6章のポール・チャン論を見てみよう。

 

Paul Chan《Rhi Anima》

 2017年3月、チャンはニューヨークの個展で《Rhi Anima》を発表した。
https://www.artnet.com/galleries/greene-naftali-gallery/paul-chan-rhi-anima/

 

 タイトルはアリストテレス「De Anima」(霊魂について)をもじったもの。チャンはこの黒いゴミ袋のようなものたちをブリーザーズと呼び、この布製の「ボディ」と一つまたは複数のファンで構成されている。プレスリリースによれば、これは「物理的なアニメーションであり、3次元的に動くイメージ」である。ブリーザーはとり憑かれたようにように踊っているように見えることもあれば、強迫的なジェスチャーをしているように見えることもある。フォスターはブリーザーズに「ゴミと化した人々、剥き出しの生の生きる人々、あるいは逆に、恐怖と嫌悪によって息を吹き返した見捨てられた人々、次なるファシストからの呼びかけを待ち望むルンペンプロレタリアート」を見ている。フォスターはそう表現していないが、いわば作品自体がFarceと言えるかもしれない。

 

 フォスターによればこの数年、チャンはオデュッセウスについて考察を進めているという。アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』においてオデュッセウスに「ホモ・エコノミクス」の起源を見いだしたが(「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」)、チャンはむしろホメロスポルトロポス(狡猾)と表現する側面に注目する。

 

 チャンは言う。「狡猾さほど人の心を動かすものはない」「私はパラドックスが好きだ。必要なんだ」。ポルトロピア(polutropia)は、文字通りには多くの紆余曲折を意味するらしい。チャンのブリーザーズはそれをまさに実演している。「この言葉はまたパラドックスについての批評的パフォーマンスにおいて複数の修辞を使用し、公式の思考法(ドクサ)に反対する一種の狡猾さをも指し示しているのだ」。

 

 修辞とはまさに「ゴミと化した人々、剥き出しの生の生きる人々」であり、同時に「恐怖と嫌悪によって息を吹き返した見捨てられた人々、次なるファシストからの呼びかけを待ち望むルンペンプロレタリアート」に見えるという形象の力によるものだ。フォスターはさらに「ブリーザーズ」という言葉から「息」のモチーフを読み取り、警察に虐殺されたエリック・ガーナー(”I can’t breathe”)や「集団で呼吸する」という語源を持つ「陰謀conspire」、そして、ゴヤの《The Coven》 (1823)やクー・クラックス・クランの儀式、ハロウィーンの衣装や駐車場の垂れ幕まで、連想を膨らませる。これは「ブリーズ」の象徴性を利用したチャンの作品に内在するものだとされる(先行する作品としてデイヴィッド・ハモンズの《In the Hood》(1993)をあげている)。

 

David Hammons《In the Hoodhttps://news.artnet.com/market/david-hammons-at-mnuchin-482738

 

 フォスターによればチャンは「政権の初期においてトランプ主義のひどい不条理さ、それがいかに滑稽であると同時に恐ろしいか、漫画的であると同時に破滅的であるかについて」わたしたちに考えさせることができた。そしてフォスターに言わせるとチャンは「廃墟の中に愛しさも見出している」というのだ。

 

 「フィクションのユートピア的きらめき」(ベン・ラーナー)を探究するとは「現実の表象の脱構築から、表象を介した現実の再構築への転換」(版元のversoのインタビューより)を志向するということである。ポール・チャン《Rhi Anima》は、ユーモラスな方法で「表象を介した現実の再構築」をはかったと言えるだろう。

 

 ※第12章「アンダーペインティング」では、ケリー・ジェームズ・マーシャルの「絵画の歴史」という展示を取り上げている。マーシャルは西洋絵画史において黒人の表象が不可視にされてきたことをテーマとして掲げてきた作家だ。ホルバインの《大使たち》をモチーフとした作品などいずれも興味深く、この作家についても回を改めてまとめたい(映画作家として認識していたが美術の領域でも重要性を持つらしいファロッキについても同様に記事を作成したい)。