Martha Rosler Reads Vogue(1982)

北千住BOuy「Bedtime for Democracy」(

https://buoy.or.jp/program/bedtime-for-democracy/

)にて、マーサ・ロスラー《マーサ・ロスラー、ヴォーグを読む Martha Rosler Reads Vogue》(1982)を見てきた。

 

 1981年に設立されたニューヨークのケーブルチャンネル「Paper Tiger Television」で放映されたライブ・パフォーマンス。


 マーサ・ロースラーが小さな化粧台の前に座り、ヴォーグを読んでいる。ヴォーグは言わずと知れた世界的なハイ・ファッションの雑誌だ。本作では雑誌の表象(誌面や広告)をめぐって、それがいかに性差別的な構造になり立っているかをコメントしていく。シューベルトの音楽をBGMに、例えば次のようなナレーションが重ね合わされる。

 

ヴォーグとは何なのか?

それは写真であり、覗き見であり、神秘化であり、魅惑であり、欲望であり、同一化である。

それは外見であり、ポーズであり、ラグジュアリーの肌である。

それはお金であり、贅沢である。それはすべて、すべて、すべてを手に入れること。

服、毛皮、香水、男、高価な男! ファッションであり、

それは芸術、それは建築物、すべてを手に入れること。

金持ちになることであり、階級の優劣を決めること。

ヴォーグとは? それは脅威であり、退廃の香りだ。

 

 映像の構成としては次のように進む。ロスラーがめくり終わると次はスライドに移り同様の表象批判が続き、終盤に中国終盤の中国の縫製工場のフッテージが挿入される。高級ブランドがいかに「第三世界」の安い労働力によって成り立っているかが暴露され、レーガンの妻ナンシーのスキャンダル(当時、ナンシーの着たドレスをつくった工場が違法労働で取り締まられたという)というエピソードを経て、鏡の前で化粧を落とすアーティストのイメージで締めくくられる。正面を向いたロスラーの顔は半分だけ素顔を晒している。

 

 図録には「消費中心主義、メディアが内包する女性の身体への欲望、労働の暗部、余暇と消費を巡る問題が明らかにされ、埋め込まれた記号が解体されていきます」とある。いわば表象にまつわるジェンダー批評的批判、そして従属論的な資本主義批判を組み合わせた作品と言っていいだろう。ロスラーが雑誌を撫でるようにめくっているジェスチャーが印象的で、これは私たちがいかに官能的に記号を欲望しているかを表しているのだろう。

 

 たまたまなのだろうが、ヴォーグの誌面に登場するサイ・トゥオンブリーが当て擦られている(「1957年からイタリアに住居を構えたその家は彼自身のようだという」という引用)。

 

 気になったのが、ヴォーグを発行するコンデナストを当時、買収したニューハウスとのエピソード。ニューハウスはハゲていて銀行員のような見かけだったが、女性といえば見境なく手を出す好色漢だったという。ロスラーは彼と交流があったらしく、ロンドンのパーティであったときのことや、ある時、タクシーの中で突然、スカートを持ち上げ潜ってきたことなどを話している。「たぶん彼と関係を持ったのは、意外だったからだろう」。このエピソードが本当なのか嘘なのかはわからないが、当時ですら訴訟リスクはあったわけで(そもそも雑誌の「引用」ですらその危険はあっただろう)、アーティストの果敢さに胸を打たれた。

 

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